Mi amas vin.

My life is my message

「愛せてたよ」をわたしに。

100日チャレンジ30日目

 

 

昨日、ブログを書き終わった後

思いがけずお別れの彼と2人になった。

 

 

何を話すでもなくただ、同じ空間にいれた。

ギターを弾く彼の奏でるきれいな音を聴きながら、やっぱりこの人の紡ぐ音が好きだな〜まゆの知らないコードたくさん弾けててすごいな〜とか思いながら。

 

 

忘れてた荷物今度取りに行くねって話や

Bのコード激むずなんだけどって話とか

彼のお腹が痛くならない、当たり障りのない会話をした。

 

これが彼の心地よさなんだよな〜と思いながら。

 

 

ほんとは、

『なんか場面ごとでいろいろ言ってたけど、結局どれがほんとの理由で別れたいってなったの?』って聞きたくなってた。

結局別れたのってなんででした?てきな。笑

 

 

 

でもそういう

自分の内側にアンサーがあるような会話が、彼がお腹痛くなるものであり、あんまり得意じゃないし好きじゃないって散々言われてたからね。

 

 

まぁ、事実はどうでもいっか、

まゆの中には愛が在る

相手が今目の前にいる

それだけでいっか、って思った。

 

 

別のタイミングや

もう少し時が経ったときに

気が向いた時には聞くかもだけど。

 

 

ソファーで寝る彼に

お布団かけてあげた。

 

 

お構いなく〜とかすいませんね〜って他人行儀。

 

 

ほんとにこいつはまゆの愛を

受け取れてないんやな〜って思った。

 

まゆの愛が、期待されてるように見え

それに押しつぶされて負い目がすごくなりやがったやつ。

 

 

あなたが好きじゃなくても

あなたが何かしてくれなくても

わたしの想いは変わらないし

わたしのすることも変わらんのよ。

 

 

見返りのないものだったんよ。

 

 

だからこそそれを

「好きになってくれるかも、と期待されている」ように受け取られたことは悲しかったなあ。

 

 

好きになってくれるかも、というか、

好きだから、そうしてた。

 

 

そこにあなたの意思や思いを

コントロールしようとする意図なんて

1ミリもなかった。

 

 

 

彼が

優しすぎるが故に

考えすぎてしまうが故にだけど。

 

 

 

まゆは好きになって欲しいという期待があったというよりは

魂の部分で交わし合えてるもののままに、人間の部分でも繋がれるはず、という期待があったように思う。

 

 

 

でもそれは

昨日も書いたけど、

魂の部分で通じ合う感覚

繋がれる感覚、それは確かな実感として

そこに実態があるとはおもう。

 

でも、わたしたちは人間なのだよね。

いつだって、魂のままに在れるわけじゃない。

 

 

どちらも在って、ひとりの存在なわけで。

 

 

わたしは彼の魂部分のみを見つめすぎて

彼の人間部分を、見つきれてはいなかった、愛しきれてはいなかったのかもしれない。

 

 

 

魂部分では明らかに想いあっているのだが

人間部分における、限界がきた

 

 

って感じのお別れだなと、まゆは感じてる。

 

 

 

あ、でもね

この前ごはんいったお友達に

彼とのことを話したら

「まゆちゃんほんとに彼のことが好きだったんだね、彼のことほんとに愛してたんだね」って言ってくれて、

「え!愛してたように見える!?」って嬉しくなった笑

 

 

愛とは難しい。

自分が愛だと思っているものが

相手にとっても愛だと認知できるとは限らない。

 

愛のカタチも

愛の言語も違う。

 

そう思ってたから

まゆは、彼の欲しい愛は渡せなかったように思ってたし、愛することに対してすごく未熟な自分も自覚してたから、その友達の言葉が嬉しかった。

 

 

「愛せてた」それは誰が決めることなんだろう。

自分の中だけで決めていいものなのか。それは思い上がりなんじゃないか。

愛ってなに。愛せてるってなに。

 

 

そんなふうに思ってたから、

でも、きっと、まゆは、

まゆにできる「愛する」を、めいっぱい全力でやったんだと思う。

 

 

それが届かないとしても

それが受け取られないとしても

それが彼が欲しいものじゃなかったとしても。

 

 

その自分のがんばりを

その時のまゆにできた全力の「愛する」を

まゆは、肯定しなきゃならないのだと思った。

 

 

そのお友達の言葉がうれしくて泣きそうになるってことは、「彼を愛してたね、愛せてたね」その言葉を、わたしはわたしにかけて欲しいのだ。

 

 

 

ひとりの人間と

一対一で深く愛し合う関係を築くこと

まゆの今世での

いちばんのテーマであり、

したい体験として決めてきているものだと思う。

でもそれは、

体験したことないからこそ

下手だからこそ

不慣れだからこそ

まゆにとっては難しいからこそ、なのよね。

 

 

 

過去にやってきた

なんなりとできる

へっちゃらへーは

したい体験としては選ばない。

 

 

魂の成長ってそういうことだから。

 

 

 

 

だからね、

とにかくまゆは、彼と出会って、付き合って

体当たりで愛を学べた。人間を学べたなあと思う。

 

 

 

いつもさ、別れた後って、こんなふうに遠くなってしまうのなら、よそよそしくなってしまうのなら、変に距離感が遠くなってしまうのなら、付き合わないで、一生友達でいた方がよかったんじゃないかって思ったりするんだけど

絶対に、付き合うからこそ、いちばん近い距離の関係性になるからこそ、見えるもの、知れるもの、感じれるもの、学べるもの、があるのだよね。

 

 

痛みも大きいけれど

付き合ってた頃と別れた後での

遠さ具合のギャップにしんどくなるけれど

それは避けては通れないのだ。

 

 

 

わたしは、

「付き合ってる」「別れた」で

なんでそんな一瞬で

人と人の関係性が変わってしまえるの?

ロボットかアマプラ契約かなんかですか?って

思ってしまうんだよね。

 

 

 

 

でもそれが人間だ。

わたしだって逆に

「付き合ってないで好き」と

「付き合ってて好き」で

モードが変わってたし。

 

 

言葉や概念で、人間は変わるのだよね。

 

 

 

いまは、

そこに在ったものが

なくなってる、と感じるフェーズなので

しんみりだけれど、同時に、

それほどしんみりできるほどの

あったかいものを

わたしは彼から受け取った

ということなのだ。

 

 

 

尊き体験を、感謝だ。

 

 

霊視のひといわく、

まゆはどんどんいろんな「体験」をしたくて、

体験をしてゆく中で、自分を知ってゆきたい、自分にとっての幸せをみつけてゆきたい、って人らしい。

 

 

 

たしかに、まゆは自分にいろんな体験を与えて、その体験をして生まれる【実感】で、「ああ、わたしは○○なんだな」って、自分を知っていってる。むしろその実感以外に、ない。理論でも思考でもない。身体と胸に生まれる感覚が、まゆにとってのすべての指針だ。

 

 

 

東京を離れるときには最後

ハグができたらいいな〜

自分の想いも伝えられたらいいな〜

 

 

 

わたし、過去好きになった人や

過去付き合った人のこと、

人間として、死ぬまで好きだと思う。

 

 

女の愛はでけぇんだよな。

 

 

 

 

 

ふぐ、今日じゃなくて明日だった。

曜日感覚なさすぎてね。

 

 

 

今日はお友達の家泊まりに行って映画観賞会である!!

 

 

 

そみさんってヒーラーの人の

この言葉、まじでそれだなあ〜と思った

 

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またねん