Mi amas vin.

My life is my message

チャレンジ

決めた。

 


もう、これまでわたしが

お母さんにしてきた、恋人にしてきた

わたしの思考と行動のパターン、癖から

卒業するということを。

 

 

わたしは散々傷つけてきたなあ。

1番近くて、1番大切な人を。

 

そして何より誰より近い自分を。

 

 

 

 


それ、から卒業するチャレンジをする、

それがわたしの《覚悟》

 

 


それにはたくさんの《勇気》が必要。

いつも、この、勇気を出せずに

結局いつもと同じパターンに、

飲み込まれているから。

でもそれ、一瞬の勇気。

 

どんな一瞬にするかが、どんな一生にするか、になる。

 

 

 

その勇気を出した先に、わたしの《未来》が見える。

 

 

 

 

 

 

その未来にしか、《愛する人はそこにいない》

 

 

 

 

 

それがわたしの見る《景色》

 

 

 

 

そこに《自由》はある。

 

 

 

 

それらに、わたしの、《うた》がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユウサミイ  の サンクチュアリー の歌詞は

いつもいつも、わたしに大事なことを

投げかけてくれる。

 

 

君に覚悟はあるか?

君の勇気はあるか?

君に自由はあるか?

君の景色はどこだ?

そこに未来は見えるか?

信じるものはあるか?

そこに愛する人はいるか?

 

 

君にうたはあるか?

 

って。

 

 

ここにすべてが詰まってる気がしてる。

 

 

 

 

 

 

 


直が直を

誰よりも、

なによりも、

大切にしている姿を

 

うれしく、思えるように。

 

 

 

 


【わたしがないがしろにされた】

ではないんだ、ということを。

 

 

 

 

 


一緒にいながら、

適切な距離をとること。

 

1人の時間を持つこと。

 

 

簡単に、寂しがりやのウリ坊が出てくるね。

 

 

 

苦しいね。苦しみしかない、って思うよね。

それがわたしの受けるべき、逃れられない罰なんだ。これまでわたしがしてきたことの。

 

 

 

でも、ほんとうに苦しいのはどっちかな。

 

 

ほんとうに、穏やかで、楽な道はどっちかな。

 

 

 

 

 

選ぼう。

 

 

 

 

 

 


直は傷が癒えるのに、時間がかかるだろう。

 

 

 

わたしが望む風には動かないし、振る舞わないよ。

 

 

 

わたしには、直を変えることもできないし、コントロールすることもできない。

 

 

 

 


ただ、それを、ありったけの愛と感謝で、見守るの。

 

 

 

 

 

笑った顔がみたいよ。

 

 

笑いあっていたいよ。

 

 

 

 

いつだって、心穏やかに、安らかに、在りたいよ。

 

 

 

そのためには、一瞬一瞬をたいせつに。

 

 

 

 

 

それは瞑想とも同じなんだ。

 

 

 

 

 

 

瞑想で、一瞬一瞬をたいせつにできなかったら、日常生活で、一瞬一瞬をたいせつにできるわけがないんだ。

 

 

 

 

Today my life begins 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

この文章を書いたあと、

1時間瞑想をした。

 

 

いつものやつがやってきた。

一瞬一瞬をたいせつにできなくなる感覚。

 

 

 

痛み、痺れ、かゆみ、圧迫感。

 

そこからくる、飽き、切れる集中、無の意識。

 

 

 

でもそれと、闘った。

 

 

 

 

打ち負かされないよう、

強い覚悟を持って、何度も何度も

呼吸に意識を戻し続けた。

 

 

 

 

平静に、観察するようにと。

 

 

 

 

 

 

 

そうしたら、ふと、

 

 

触れていないのに、

 

 

わたしのiPhoneのSiriが勝手に作動した。

 

 

 

びっくりした。

 

 

 

画面をみると、

 

 

 

f:id:mayu76:20180929091614p:image

 

 

 

『Hey Siri  ラブ』

 

 

 

の文字。

 

 

 

わたしは瞑想していたから、

ケータイに喋りかけれるはずかない。

ケータイに触れれるはずがない。

 

 

 

 

 

それなのに、動いたケータイ。

 

 

 

そこにある

 

 

『ラブ』

 

 

の文字に、感極まって泣きそうになった。

 

 

 

 

 

もう、卒業しようと、

 

 

闘う、その姿に、

 

 

 

愛が降ってきた。

 

 

 

 

 

しかも カナダ  の文字。

 

 

 

 

 

わたしがインドのダンマギリで奉仕をしたとき、カナダ人のクリスティーンとペアだった。

 

 

 

彼女は愛の人だった。

 

 

 

いつだって、

誰にだって

愛で溢れてた。

 

 

 

 

旦那さんとも、仲睦まじそうに、幸せそうにしていた。

 

 

 

理想の在り方だ。

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

ダンマ、背中を押してくれて、ありがとう。

 

 

 

 

 

ようやく、選べてきてる。

 

 

 

 

いつものパターンに持っていくか、

 

ふぅ〜と息を吐き、微笑むか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9日間のコースマネジャー

【9月24日】

 


年に一度しかないサティパッターナコースが終わった。まさかのコースマネジャーになった今回のコース。

 


え、わたし英語しゃべれないよ?

え、わたしが1番ペーペー瞑想者だよ?

え、わたし人前でしゃべるんすか?

 

 

 

聞いた直後からしばらくは、自分がコースマネジャーに選ばれたことが信じられなさすぎた。

 

 

 

でも、高校の部活の時。

初心者でバトミントンを始めた私が、

部長に選ばれた。

 

 

 

そのとき、よく面倒を見てくれてたOBの人がくれた言葉があった。それはわたしの背中を押してくれた。

 

 

 

『役が人をつくる』

 

 

 

だから、

ふさわしくないとか

自信がないとか、

そういうの全部吹っ飛ばして、

 

 

 

ただ、自分に、やれることを、

精一杯やろう。

 

 

 

 


そう決心して、始まった

 

 

 

 

 

 

コースは

 

 

 

とにかく濃かった。。

 


気づきも、学びも、しんどいことも、ぜーんぶ。

 

 

あとは、

‘Dhamma works”としか言いようのない瞬間が、たっくさんあって。感動で。感謝しかなくて。それはメッターとなって。

 


でも本当は、すべてがダンマで。

すべてが奇跡であり、必然なのだと。

 

 

 

 


そしてなにより、なにより、先生。

 


メッター[愛と慈悲の心]がすごい。

 

 

 

なんなんだ、この人は。

 

 

 

 


尊い人だなあ。

 

 

 

この世にまだ生を受けた状態で、

こうやって出会えて、

こんなにも近くで関われて、

 


わたしはなんて幸せ者でラッキーなのだろう、

 


って思った。

 

 

 

生徒のどんな、質問や悩みにも

 

 

 

丁寧に、真摯に、メッターを込めて、応えていた。

 

 

 

 


この人が、人を傷つけることなどないのだろうな。

 


この人が、自分を傷つけることなどないのだろうな。

 

 

 

そう思った。

 

 

 

 

 

 

 


いま、手元にあるもので満足すること。

忘れてしまいがちな有難いことに、

日々気付けること。

出会う人、出会う出来事、出会う感情、

そのすべてが『いただきもの』であるということ。

 

 

 

その心の在り方が、このダンマの道を歩む上での、片輪となる。

 

 

 

もうひとつの片輪が、瞑想。

その瞬間の真実に、気付いていること。

意識が感覚とともにあること。

感覚は、常に移り変わる現象であり、

【アニッチャ】

 

自分にはコントロールできず

自分のものではないと理解すること。

【アナッター】

 

コントロールしようとした瞬間に苦しみが始まる。

【ドゥッカ】

 

 

この理解を持って、知恵を育んでいく。

 

 

 

 

その2つの車輪が回って初めて、

前へと進むことができる。

 

 

 

 

 

 

本当に大事なことを教えてもらったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たまには休んだって、寄り道したっていい。

道端のたんぽぽを愛でる時間だって大切だ。

だから、その瞬間の自分の姿を、

責めることなく、ただ、受け入れて。

 

 

 

 


自分からなにかを、つかもうとしないこと。

自然が勝手にやってくれる。

自然が勝手に運んできてくれる。

 

 

 

 

 

 

今、いろんな奥深くのものが揺さぶられてる。

 

 

 

 

 

 

近い人の前だけしか出ることのなかった

 


わたしの中のソレ。

 

 

 

いまは、この、たくさんの周りの人がいる中で、出てきてて、戸惑っている。

 


新しいね、これも。

 

 

わたしにはまだ、自分を削ることなく、役を全うすることが、へたっぴなのだと気付きました。

 

 

 

直、バランスを崩したわたしを、

支えてくれて、

ありがとう。

 

 

あなたは、

本当に、

愛しかないね。

 

 


f:id:mayu76:20180929114935j:image

わたしのなかの聖域

 

 

ようやくわかった。

 

 

 

 

人には、その人にとっての

[聖域]心地いい道【波長・波動】がある。

ひとの波長に合わせる必要はないということ。

 

 

 

わたしにとっての聖域、心地いい波動を、

どこにいても誰もいても、

守っていくということ。エゴ、自我から。

 

 

 

 

 

 

ひろみさんとお話させてもらってわかった。

 

 

わたしはこれまで高速道路【自分の波動の道】を走っていたのに、低速道路【直の波動の道】に自ら移動した。直の世界の中心で愛を叫んでいるようなもん。や、自分の世界で愛を叫びなさいって話。

 

高速道路を走ってるときは、

白い花しか見えない。

黒い花は在るのだけど、自分が速すぎて

目には見えない。

 

白い花っていうのは他者からの心地いい承認に繋がってる。

 

その低速の道路では、

速度が遅いから普段は見えてない

黒い花もたっくさん見える。

 

重たさ、遅さ、を感じる。どんどん自分が重たくなる。

 

 

 

直だけに限らない。

わたしがこれまで恋愛をする度に

【本来の自分じゃなくなる感じ】

がしていたのは、

 

 

 

恋愛相手の道路【相手の波動の道】へ

自分が移動しちゃってたから。

 

 

自分の心地いい波動の道から、

自ら外れてたから。

 

 

 

だからわたしはいつからか、

《恋愛をしているときの自分》

《彼氏ができたときの自分》

が嫌だった。自己嫌悪があった。

 

 

それでいて、

この、胸の奥の

 

「本来の自分じゃない感じ」

「生きてる!って感じきれない感じ」

「このままでいいのか?って疑い」 

「どうしてこんなに惨めになるの?」

 

 

見て見ぬふりをしてきた。

目をそらしてきた。

[感情的]に生きてこそわたしだと、

自分をなんとか立たせていた。

(でもその[感情的]ってのは、確かにたくさんの感情が生まれることで、それを味わい、奥にある恐怖に気付くチャンスではあるのだけど、ここの場合、無限ループの[感情的]なんだよね。そこにある恐怖に目を向けない限りは。)

 

 

しまいには、それを

 

相手のせいや環境のせいにしていた。

 

 

 

 

それなのに、

そこから離れれないのは、

執着が生まれて怖いのは、

 

相手が存在への絶対的な肯定をくれるから。

 

 


わたしはそれがなくなることを恐れてるのだけど、それは『なくならない』。

 

『なくなる』と思うのは幻想なんだね。

 

 

 

こんなにも〔自分の価値〕が怖いのは

本質の自分を知れていないから。

わたしがわたしの価値をわかってないから。

 

 

 

 

 

《内側の分離が必要》

 

 

わたしはわたしの道を歩く

あなたはあなたの道を歩く。

 

 

表面上の言葉では似たようなこと、

最初から言ってきた。お互いに。

だから関係性が始まる時に、

名前をつけないでいようって、

彼氏彼女って呼ぶのはやめておこう

って話してた。

 

 

でも、

 

 

 

でも、わたしは、

正直、

アタマだけのことに終わっていたのだと思う。

 

 

 

だって怖かったもん。いやだったもん。

 

 

 

 

 

いつも直が、

このテーマの話しを出してくるとき、

 

わたしの胸の奥はざわついていた。

 

 

怖かった。

 

 

わたしが、相手の道路から、外れること

 

それが怖かった。

 

 

相手の道から外れてもなお、

一緒にいれる自信がなかった。

 

 

 

安心していたかった。

 

 

安心していられるために、

 

わたしは、相手の道路へ移動していた。

 

 

 

自分のほんとうの、本来の、心地よさを捨てて。

 

 

 

本来の、ただ1人の小林茉優の、道。

 

それを歩かない限りは、

 

全てが始まらないのだと。

 

 

 

ようやくそれを理解してきている。

 

 

 

 

 

出会ってすぐのころは

分かり合えるのがうれしくて

理解し合えることがうれしくて

共感できることがうれしくて

 

どんどんわたしは、

直が見ている世界へ、入って行った。

 

 

直のサンニャ【色眼鏡】を

貸ーして!ってかけて、

目の前の現実を見てきた。

 

 

 

 

 

 

でも、今は違う。

 

 

 

それぞれ、

 

 

人は見たい景色を見るのだ。

 

 

それは人と違っていいんだ。

 

 

愛する人とも違っていい。

 

 

見たいように見ればいいんだ。

 

 

 

そう思えた昨日の夜。

 

 

 

 

 

 

 

大事にしていこう。

 

わたしの道を。

 

 

そこに、本質【愛】があるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、あともう1つ、

でっっっっかい気付きがあって。

 

 

 

 

わたしは、

 

自分の中の、

自分の内側の

 

【何かを変えようとするとき】には、

 

【何かをしなきゃ】と思ってしまう、

 

そういう癖を持っている、ということ。

 

 

わたしが変えたい何か【being】

 

それを変えるために、

しようとすることは、【doing 】

 

 

本来の順番じゃない。

 

 

 

何かを変えるために、何かをするんじゃなく、

 

 

 

まず、【being】

 

 

自分にとっての心地よさ

ひらけて軽やかな感じ

1番波動が高いとき

 

 

その状態で在れて、初めて

 

思考を受け取る準備ができる。

 

 

 

その思考を受け取ったら

 

 

行動に移す。

 

 

 

 

次の瞬間に、

 

何を思いついても

 

 

行動に移す【覚悟】を持つ

 

 

ってことだったんだね。

 

 

 

 

 

わたしはすーーーぐ、

何かしよう、

どこかへ行こう

誰かに会いにいこう

としてしまう。

 

 

《内側の分離》という

わたしに必要なことを

叶えるために、

 

《物理的な分離》しか、頭に思い浮かんでこなかった。

 

 

だから、このいまいる群馬に

インドから帰ってきてから滞在中のとき、

 

何度、この家を出ようと思ったことか。

何度、プチ家出したことか。

何度、直と離れようと思ったことか。

何度、直を突き放したことか。

 

 

 

でも。

それらの行動をとったとしても、

わたしの中にある種は変わらずあり続けていて、本当の解決にはならないこと、どこかでわかっていた。

 

 

 (場合によっては、物理的に離れることが、強制的な内側の分離にしてくれることもある。それを去年の私たちはしていた。それが必要だった。でもいまはもうそのステージにはいない気がしてるんだよね)

 

 

 

それでも行動に移しちゃってた。

インド後のわたしは。

 

 

でも今は

はっきりと、それは、解決策にはならないことを知っている。

から、家出とか直を突き放すとかはしていない。

 

 

でも、ここでも落とし穴があって、

それらの行動を【しない】という【doing】

をしているのだと、ひろみさんに気付かされた。

 

 

ふぅ〜〜なんとも難しい。笑

 

わたしはすーーーぐ、doing にいってしまう。

 

 

 

 

だからいまは、

ほんとうに、

 

在り方、

 

Being、

 

 

そこでしかないのだと。

 

 

 

わたしが、

わたしの道を生きるとき、

 

 

その道は、誰にも邪魔できない。

誰にも縛ることはできない。

 

 

 

わたしに自由はあるか?

 

 

 

 

 

あなたに自由はありますか?

 

 

 

 

 

 

人にはみんな、その人に合った

波長、波動があって。

 

人にはみんな、その人にとっての

聖域があって。

 

それらは、

人間みんなが持ってる【本質】、

と繋がってる気がしてて。

 

 

ただ、愛。

 

 

 

 

まさきが教えてくれた、

ユウサミイのsanctuary[=聖域]という歌。

 

 

これらの話のど真ん中を歌ってくれてる。

 

 

 

 

歯を食いしばって守ってきたものはなんだい?

 


君がいつも疲れて見えるのはどうして?

日々の流れ、事なかれ、踏み外さないように

孤独を生きた自分を信じてみないか

 


あの日、憧れた冒険を夢に見る夜があるなら、君は諦めてなんかいないぞ

 


君に歌はあるかい?

君に歌はあるかい?

 


振り絞る声を叫ぶ心を、

乗せてどこまでも飛んで行け

 


さあ行こう

僕らだけの明日へ

 

 

 

何もわからない赤ん坊だったころのことさ

 


君の記憶にはもう存在しない

真っ白なサンクチュアリ

 


自由でいたい

強く生きたい

みんな同じように

遠回りの坂を登って自分を信じたい

 

 

 

君を見つめてる人は

全力で走る君こそ

愛と夢の真実を見るだろう

 

 

 

君に歌はあるかい?

君に歌はあるかい?

 


現実の闇をそびえる壁をひるまず叩き壊していけ

 


さあ行こう

僕らだけのサンクチュアリ

 

 

 

 

 

 

君に歌はあるかい?

 


君に自由はあるかい?

 


君に勇気はあるかい?

 


君に覚悟はあるかい?

 

 

 

 

君の景色は何処だい?

 

 

 

 

そこに未来は見えるかい?

 

 

 

 


信じるものはあるかい?

 

 

 

 

 

 

 


愛する人はいるかい?

 

 

 

 

 

 

 


君に歌はあるかい?

君に歌はあるかい?

 

 

 

 


振り絞る声を

叫ぶ心を

乗せてどこまでもとんでいけ

 


さあ行こう

 


僕らだけの明日へ

 

 

https://youtu.be/f23KwuBuKq4

 

 

 

 

あゆちゃんからの愛の贈り物を受け取って

とってもうれしがってるときのわたし

f:id:mayu76:20180907165032j:image

 

 

 

わたしのおもしろ変化

 

なんかふと思いついて書き出す。笑

 

 

1番のおもしろ変化は、なんといっても、

 

何にもダイエットとかしてないのに

 

 

1年前から体重が13キロも減ったこと!!

 

 

 

変わらずわたしはお腹いっぱい食べ続けてるし、特に運動量を増やそうと努力してるわけでもない。

 

 

 

 

じゃあこれ、いつから体重減少が始まったのかというと、1年前の9月に、徳島の空音遊でマクロビ料理を学びに行ったのが始まりだと思う。

 

 

ピースボート乗ってからそういう、食に興味持つようになってた。

 

 

北海道のニセコにある自給自足研究所でも、毎日ビーガン料理だった。ほんっとうに美味しかったし、わたしの体の体調もすごくよかった。

 

 

徳島の空音遊でも、やっぱりわたしの体調はすごく良くて。

 

 

お肉とかの動物性を取らない、マクロビとかビーガンが、きっと体に合うんだなあって知り始めた。

 

ヴィパッサナーセンターでもベジだしね。

 

 

んで、函館での大学生生活でも、自炊はマクロビ料理を作るようにしてた。

 

 

それくらいから、すこーーーしずつ、減り始めたかな。

 

 

 

やっぱり、

 

人の体は、食べるものでできていて。

 

何を食べるかって大事なんだね。

(それと同じかそれ以上に「どう食べるか」も大事だけど)

 

逆に食べるもの変われば、

体もすぐに変わるんだなあって。

 

 

 

 

わたしもともと太ってたけど、ピースボート乗って、1日最大9食も食べれる環境に、肥えに肥えた。笑

 

 

 

そしておもしろいのが、

いっっっちばんの、ガクンと減り始めたきっかけは、

 

【大学を辞めたこと】

 

だったんだよね。

 

 

 

いろんなものに囚われて、苦しみながらも、

 

でもやっぱり、勇気を出して

 

【やりたくないことは、やらない】

 

という選択をした。

 

 

 

 

そしたらどんどん減り始めた笑

 

 

 

やっぱ、大事なんだと思う。

 

 

 

やりたくないことを、やらないってことは。

 

 

 

精神的に軽くなると、身体的にも軽くなるんだと思う。

 

 

 

そして、

 

大学辞めてからは、

 

ヴィパッサナー瞑想と出会い、

 

3週間くらいタイを旅して、

 

インド3ヶ月行ってきて、

 

群馬で2ヶ月「何もしない」をしてて、

 

京都で1ヶ月半ヴィパッサナー瞑想センターにずっといて、

 

 

いままた、群馬にいる。

 

 

 

この過程で、わたしは、どんどんどんどん、抜けてった感覚がある。

 

 

 

許せなかった自分

 

 

握りしめていた何か

 

 

凝り固まっていた何か

 

 

目を背けようとしていた何か

 

 

無知ゆえに染み付いていた癖

 

 

が。

 

 

 

 

 

ヴィパッサナーと出会ったきっかけも、

ピースボートで出会ったソーヤ海さんが

始まりだし、

 

わたしの人生のもろもろの変化は

ピースボートがきっかけ。

 

 

ピースボートを2017.3に降りてから、

大学辞める2017.12までの9ヶ月の間で

自分が感じてた変化を書き出してたメモを見つけた。

 

 

 

【2017年自分の身に起きた変化】

を思いつくままにつらつらと。

 


○化粧をやめた

○お酒辞めた

○肉食べなくなった

○マクロビに興味もつようになった

○自炊するようになった

○料理楽しいって思うようになった

○何を身につけるか[服]、何を口にするか[食べ物]を気にするようになった

ピースボート乗り、世界の見え方ガラッと変わった

○現地(途上国)での国際協力への熱が冷めた

○世界の貧困を作り出してるシステムに加担しない生き方をしたいと思うようになった

○外側[途上国、他人]に向いていた目が、一気に内側[日本、自分]に向いた。

○農的暮らしとか半農半Xをおもしろいと思うようになった

○時代の流れというものを感じるようになった

○公教育から身を引くと決めた。教職やめた。

○そもそも教育も一旦保留

○自分の本当にやりたいことは「教師」になる必要はないことに気づいた。というか「何かになる」必要がないと気付いた

○大学の授業のつまらなさに限界がきた

○楽しいと思えないこと、ワクワクしないものへの「我慢」ができなくなった

○大学を辞めた

○バイトも辞めた

○自分の内側とまっすぐ向き合いたい という欲求が強く生まれた

○月のリズムとともに生きることのおもしろさを知りだした。生理が、満月の日に来るようになった。

○天と繋がった生き方を感じれるようになってきた

○ケミカルナプキン卒業。布ナプキンを使うようになった

下着も変わった。締め付けないものに変えた

ピースボート時期から8キロ痩せた

LGBTレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー)すべての人と初めて出会って、初めて友達ができた(in ピースボート

○その中でもトランスジェンダーの人とお付き合いのような関係が始まった

○今までにない、お付き合いのしかたが始まった。名前のない関係というか『彼氏彼女』っていう肩書きをつけない関係。(その中での変化はありすぎて書ききれない)

○古民家再生とか空き家を使ってサードプレイスとか、そういうのおもしろいと思うようになった

○木とか森とかお花とか空とか、自然からいろんなものを感じ取れる人間になった

○自然がだいすきになった

○どこに行くにもなるべく物は少なく。身軽に。シンプルに。という考えになった

ヴィパッサナー瞑想合宿を機に、これまでの自分の恋愛に対する在り方、性に対する在り方への、捉え方がガラッと変わった

○おにぎり持って公園とか、ピクニックみたいなのが好きになった

○外食しなくなった

○歩くの好きになった

ヒッチハイクよく使うようになった

○末端冷え性なくなった(気がする)

○断捨離しまくるときの快感を知った

○お母さんとの心の距離が縮まった

○お父さんとも少しずつ。縁を切ってその1年後、縁を戻して。今はいい感じ。

○魂とか精神性とか考えるようになった

○ようは精神世界をおもしろいと思うようになった

ツイッター辞めた

○何かを身につけたりして「着ていく」のではなくどんどん「脱いで」「手放して」、本来の自分に戻る、という方向にチェンジした

○人は自分自身の鏡なんだと知るようになった

○目に見えないエネルギーを信じるようになった

○7年続けてた毎日の日記を辞めた。

○『死ぬまでにやりたい100のことリスト』なんか違和感感じ始めて辞めた。やりたいことってのは、その瞬間、瞬間に変化していくものだから、ある特定の時間の点にいるときに、今後のやりたいことを時期まで決めて計画することに違和感だった。

 

 

今はまたこれにプラスして、

もろもろ変化はあるけれど、

 

 

とにかく何が言いたいって、

 

1年前と、

今の自分。

 

 

自分で、思う、

 

『同じ人間とは思えないなあ〜。。』

 

 

って。

 

 

見た目も中身も。

 

 

それがすごくおもしろいんだ。

 

 

 

アニッチャ、アニッチャ。

 

(この言葉の意味わからない人は1個前の記事読んでね☆)

 

 

 

 

より奥深くの、わたしの内側の変化も、そのうち書けたらいいな。

 

 

 

最後に、体重の変遷を。。笑

f:id:mayu76:20180827211605j:image

群馬での今、ヴィパッサナー。

その人によって傷つけられてるようで、

 

 

 

その言葉によって傷つけられてるようで、

 

 

 

その人によって責められているようで、

 

 

 

 

その言葉によって、責められているようで、

 

 

 

 

 

真実は、

 

 

 

そのどれも当てはまらない。

 

 

 

 

 

 

すべては自分の中に、種がある。

 

 

その人が、その言葉が、その状況が、

 

心の傷になる種が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この人は、何ができるか。

この人は、何を持っているか。

 

 

そんなものばかりで、人の価値や評価を。

 

 

 

その〔目〕は、自分にも向く。

 

 

 

何ができるか[doing]

何を持っているか[having]

 

そこと、自分の価値、評価をつなげる。

 

 

そうなると、

 

何かができなきゃ、ダメなんだ。

何かができなきゃ、ここにいられないんだ。

何かができなきゃ、価値がないんだ。

 

 

 

何かを持ってなきゃ、ダメなんだ。

何かを持ってなきゃ、ここにいられないんだ。

何かを持ってなきゃ、価値がないんだ。

 

 

 

何ができなくても、

何を持ってなくても、

 

ただ、存在しているという、生きているという【being】に、自信がなくなる。不安になる。

 

 

 

 

 

学校の通知表とか、面接とか、就活とか、そもそも自分の価値や評価が、外側に判断されやすいこの世の中では、陥りやすいものだけど。

 

 

 

 

 

わたしは、いちばん近い人との関わりで、これが顕著に、大きな反応として出る。

 

 

 

いろんな材料をつかって。

 

 

 

 

もうなんでもいいんだよね。

 

ささいな言葉とか。

 

 

 

 

 

どうしてそんなにも

 

【敵ばかりだ。責められている。そのままではダメなんだ。何かより誰かより劣っている自分は価値がないんだ】

 

 

 

っていう《色眼鏡》を通して、目の前の現実を見るのかなって。

 

 

 

 

そうやって自分で自分を傷つけて、

 

その悲しみや、苦しみ、胸の痛みを、

 

 

直に投げつける。攻撃として。

 

 

 

 

 

 

直はわたしを責めたいわけじゃないのに、

責めてなんかいないのに、

 

なぜかわたしによって責められ、傷つく。

(とんでもない、とばっちりだよね。笑    本当にかわいそう。胸が痛い。ごめんなさいっていつも思ってる)

 

 

 

 

わたしが、現実を、あるがままに、観れていないから。

 

 

 

 

 

 

そんな色眼鏡を外した、

 

ありのままの、

 

そのままの、

 

 

あるがままの、

 

 

現実を、

 

観れる、

 

 

【明晰さ】を。

 

 

 

 

 

『ヴィパッサナーによって、育める』

 

 

ということを、わたしは知っている。

 

 

確信している。

 

 

 

 

 

いつものように、なにかの言葉で、反応する。

 

 

嫌な感情が生まれる。

自分の中が、心地悪くなる。

 

 

 

そこで、すぐ自分の《体に生まれている感覚》と自分の《呼吸》に、意識を集中させる。

 

 

 

すると、あんなに、ぶわあああって盛り上がってた怒りの感情が、すーっと引いている。

 

 

その事実に、表情、発言、思考などの、側の自分を合わせるのが難しいほどに。

 

 

 

 

一瞬の、大波のように。

 

一瞬の、暴風のように。

 

一瞬の、にわか雨のように。

 

 

 

それは、過ぎ去っていく。

 

 

 

 

 

その【移り変わり】を、しっかりと、感じる。理解する。認識する。

 

 

 

 

【移り変わり】=アニッチャ。(パーリ語

ものごとは、すべて無常。

すべて移り変わっている。

生まれるものは、必ず滅びる。

この世のすべては、生成と消滅の連続を繰り返している、現象に過ぎない。

 

 

 

 

ヴィパッサナーは、ほんとうに『生きる技』

 

 

 

 

いま、この群馬で、ささいなものを使って、反応を起こして、過去のサンカーラー総ざらいに引き出して、大嵐&大掃除してる最中だ。

 

 

 

 

 

 

苦しすぎるけれど、

(や、ほんとは、真実は、そんな苦しくないんだとおもう。お花畑でボクシング。)

 

それは通って然るべき道。

 

 

 

 

大嵐で、大掃除してるんだって、

 

俯瞰してみれるときは、

 

 

おもしろい

 

 

って思える。これがやりたいことだなって。

 

 

 

 

 

 

久しぶりのブログだな。

 

 

ほんとはセンターを出てすぐに、ヴィパッサナーのこと、わたしが感じた恩恵のこと、たくさんアウトプットしたかったけど、

 

 

わたしの内側も、どんどん移り変わってて、過去に感じたこと、書こうと思っても、今は書けなくて。

 

 

とにかく

 

【理にかなっている】

 

ということだけ、今書いておこう。

 

 

 

 

体の感覚が、自分の潜在意識と繋がってる。

 

体の感覚を見ることが、潜在意識にアプローチすることになる。

 

 

人がどんなに

 

『ありのままの自分を愛そう』

『すべてを受け入れよう』

『相手を許そう、自分を許そう』

 

 

って言ったところで、それは思考や、感情の、顕在意識でのあれこれ。それは100%のうち、たったの2%

 

氷山の一角。

 

 

 

 

だから、そのときは、そうに思えて

今度からはこうしよう、ああしよう

 

と思ったって、

 

人の心の習慣、癖は変わらない。

 

 

 

同じことを何度も、何度も、繰り返す。

 

 

 

 

 

その心の習慣、癖は、潜在意識【無意識】によるものだから。

 

 

 

 

わたしがそうだった。

 

 

過去のブログに散々、

 

すべてを受け入れることだ

自分を許すことだ

どんな自分も愛することだ

 

 

たくさん書いてきた。

何度もそう思ってきた。

 

 

 

 

でも、ただ【思うだけ】、【頭の中で決意するだけ】では、何も変わらなかった。

 

 

同じことを繰り返してた。

 

 

 

 

でもいまは、確実に違う歩みをしている。

 

 

 

 

体の感覚は、常に心と接触している。

 

感情や、思考とが生まれるときは必ず、

体にも感覚が生まれている。

 

コインの裏表のようなもの。

 

 

 

人が、感情を観察することは難しい。

 

 

怒っている時に、怒りの感情を観察しようとしても、むくむくと怒りが膨れ上がっていくだけ。

 

 

その人が、自分を不快にさせたのは、たったの一度なのに、自分の頭の中では何度も何度も、同じ言葉や同じ状況が、リフレインする。

 

 

過去の、

あのとき〜だった

このとき〜だった

 

っていうのも、どんどん芋づる方式に出てくる。

 

 

 

 

でも

 

 

体の感覚に気付くことなら、

呼吸に気付くことなら、できる。

 

 

そこに意識を向け続けていると、

怒りの感情は、静まっていく。

 

 

何度も何度も、これでもかってくらいに、しつこく、しつこく、生まれては消え、生まれては消え、を繰り返す。

 

 

 

 

そのことにただ、気付いている。

 

 

 

自分の体の枠組みを使って、

 

宇宙の真理である

移り変わり・無常【アニッチャ】を

理解していく。

 

 

 

わたしはこれを、

すごくおもしろいなって思う。

 

 

 

 

最後にセンター滞在中のインスタ投稿をのっけて終わろう。

 

f:id:mayu76:20180824090702j:image
f:id:mayu76:20180824090706j:image

動きも、予定も、人生の流れも、予測不能なわたしたちですが、とっても、すてきな人に囲まれ、すてきなところで、一瞬一瞬を噛みしめながら、いま、生きてます。目の前の奇跡に目を開きながら。

.

この、豊かな自然の中で、自分の体の枠組みで自然の摂理、真理を理解しながら、自分の中の苦しみと向き合い、心の濁り、縛り目をヴィパッサナー瞑想によって浄化する。その都度たくさんの気付きがある。自分の中の渇望、嫌悪、無知、執着。そしてアナスタシア曰く人間でもっとも重要な、意識の明晰さを瞑想によって育む。そのひとつひとつの瞬間が、いま、とても大事な時間になっています。愛と慈悲の瞑想をするときには、すべてへの許しと、すべてへの愛と、奇跡と感謝とで、胸がいっぱいになる。ただそれも、移り変わること、生まれては消えることの理解を忘れては、執着になる。

.

ただ、生きてること。ただ、息してること。それを感じる。それを見つめる。そして周りを囲ってくれてる自然、人、それがどれだけ愛の存在なのか、どれだけ幸せで奇跡的なことなのか、そのことで胸がいっぱいになる。

.

ヴィパッサナーを通して、自分がよく見える。と同時に、「自分」なんてないのだとわかる。生まれる苦しみのわけを、原因を、種を、理解する。自分の〈内〉が変わることで、目に見える〈外〉がこんなにも変わるのだと実感する。それは、人と人の間に流れるものも。1番近い直との関係も、この1ヶ月の間に目まぐるしく移り変わっている。その瞬間瞬間に。すべては「無常」。生まれては消える。人間の細胞も、感覚も、感情も、いのちも、すべて。その移ろいの儚さを、時に涙とともに受け入れる。

.

認識があり、知覚が働き、感覚が生まれる。そして最後4つ目の働きの「反応」。ここで、浄化の道か、種を植えるか。どんなカルマをつくっていくか。

.

この7月の1カ月は、奉仕者として、コースを運営する側で、瞑想とごはん作りの日々だったけれど、次の8/4からのコースは生徒として、11日間座ります。とことん自分の核と、向き合おう。

 

 

 

 

 

 

8/4から10日間座ったときのシェア、そのうちできたらいいな。と思っている。

 

 

 

 

こんなお花畑のような現実が、あるよーわたし。

f:id:mayu76:20180824094606j:image

 

 

 

 

 

思い出したこと。

ただの、「いち人間」であることを。

 

 

 

 

 

ただの、「他人」であることを。

 

 

 

 

 

「彼と」幸せになるのではないことを。

 

 

 

 

「わたしと」幸せになるのではないことを。

 

 

 

 

彼は、彼で、幸せに生きる。

 

 

 

わたしは、わたしで、幸せに生きる。

 

 

 

 

 

当てはまる関係性がなく、

 

 

いち人間として、対面したとき、

 

 

交わせる気持ちが、触れれる温度が、

 

 

どれだけくすぐったいものかを。

 

 

 

 

わたしは見失っていた。

 

 

わたしは忘れかけていた。

 

 

 

 

どこまでも不器用だ。

どこまでも極端だ。

 

 

 

 

 

たくさん出てくる、「反応した」思考、考え、言葉。

 

 

 

それを口にした直後に、俯瞰して

 

わざわざ演じてる自分に気付くわたし。

 

 

 

演じきって、飲み込まれてる自分から

 

 

一歩引いて、なりきりを辞める自分へ。

 

 

 

まだまだ、そのままいっちゃうときもあるけど、

 

 

前に進めてんじゃん?

 

 

 

 

 

OK、OK。

 

 

 

 

他人には「敬意」をね。

 

 

 

f:id:mayu76:20180617005358j:image

 

 

 

涙を流し合って、握った手と手。

やっぱり必然だったと思えている新潟帰省。

f:id:mayu76:20180606014310j:image

 

 

いつぶりだろうか。

 

 

お母さんの目の前で、

 

泣けた。

 

 

 

いろんな涙を流した。

 

 

責められているように感じ、

悲しくなって流した涙。

 

 

 

責めてるわけじゃないんだよ

と、悲しげに、優しげに、一生懸命

言ってくるお母さんを見て、

流れた涙。

 

 

 

もう前提や価値観が違すぎて

根本的なところから理解し合うことは

無理なんだと、諦めたときに

寂しさと清々しさとともに、

流れた涙。

 

 

 

お母さんの中にある、

自分を責める気持ち、

自分の親への後悔の気持ちに

触れたときに

流れた涙。

 

 

 

お母さんの中にある

純粋な

 

葛藤

苦しみ

やるせなさ

わたしに吐き出してくれたときに

流れた涙。

 

 

前にまゆは、

「まゆが小さい頃、お母さんは、まゆのこと、どう思ってたの?」って聞いてきたけど、

 

正直、わかんないんさ。

どうしようもないくらい不器用なんさ。

わかってるよ、口数も少ないし、強がりだし、素直じゃないし、うまく伝えられないけど、それをわかってるけど、自分でもどうしようもないんさ。

嫌いだったとかではないんだけど、うまく接することができなかったというか、接し方がわからなかったんさ。

 

そのせいで、まゆにも迷惑かけたよね。

 

ごめんね、まゆ。

 

 

 

そう言って、わたしの手を握ってきてくれた。

 

(思い出して書いてる今、涙が流れてる。)

 

 

 

そんな風に、 

 

お母さんが、

 

涙ながらに、

 

胸の内を、

 

ありのままに、

 

さらけ出してくれたのは

 

 

初めてだった。

 

 

お母さんが、涙を流しながら、

真っ直ぐに、わたしの目を見てきて、

「ごめんね、まゆ」

と言ってきた、あの瞬間が、

頭に焼き付けられてて離れない。

 

2人で手を握り合って、涙を流した、あの瞬間が。

 

 

 

 

わたしは、お母さんの涙を1回しか見たことなかった。

 

 

 

わたしとお母さんとで、長年飼ってた猫が死んだとき。

 

 

1つの空間に

 

2人。

 

 

おたがいに悲しみ、

 

おたがいに涙を流すけれど、

 

悲しさを伝え合うでも

分かち合うでもなく、

 

ただ。涙を流した人間が、一緒に悲しい空間の中にいた。

 

 

 

 

お母さんは何度も何度も何度も言った。

 

 

親ってのは、いつかはいなくなるんさ。

当たり前のことなんだけど、亡くしてみないとわかんないんさ。

 

 

だから、自分がいなくなっても、

ちゃんと自分の子が生きていけるように。

 

 

愛から、言ってくれてるんだと。

 

 

そう受け取れた。

 

 

 

そしてお母さんの願いは

『安心させてほしい』だった。

 

 

(もうすでに安心してもらっていいのになあ〜と勝手ながら思っているけれど、、)

 

 

わたしは、

 

自然の中で、自然に生かされながら

共生しながら、生きていきたい。

失っている多くの「人間の能力」を取り戻したい。

音、におい、色、感触、目に写るもの

感覚を味わいながら生きていきたい。

アナスタシアの世界観が理想。

野草、薬草もっと勉強していきたい。

野草を見つけながら、覚えながら、山を歩くのが、ほんとうにワクワク。

星を見ながら、宇宙の奇跡に、感動しながら、日々を生きてたい。

心と想いのこもった、シンプルな料理を、味わって食べてたい。

人と繋がりたい。

新しい世界と出会う喜びを味わい続けたい。

人の柔らかい部分で、やりとりをしていたい。

隠したくなる弱さや寂しさを、分かち合って、寄り添い合って、生きてたい。

 

 

 

 

そういう、在りたい在り方がはっきりしてて、

そのbeを叶えるためのdo(すること)はそこまで、これ!!って決めてるわけじゃない。

(とりあえずこれからは、山で暮らそうとは思ってるけれど)

 

 

だから、お母さんにとっては、

わたしの在りたい在り方は、

戯言にしか見えず、

『で?どうやって稼ぐの?どうやって生きてくの?』

という目でしか、会話ができない。

 

 

 

そこらへんの言い合いになってるとき、

 

あ、これは、わたしのしたいやりとりではないし、意味をなさない会話だなと思って、ソファに横になり目を閉じて、強制的に話を終わらせた。(ちょっと悪かったかなあと反省。)

 

わたしはお母さんと、

なにか外側の情報をひっぱってきて、

言い合いっこをしたいわけじゃない。

 

 

 

お母さんが持ってる

たくさんの、前提、当たり前、常識、

「働いて現金を得ないと生きていけない」

「生活するのにたくさんお金が必要」

「人なんてそんなもん。あてにしちゃいけない。」

「頼っちゃいけない」

「人からお金をもらうってことは、すっっっごく大変なこと。生半可なもんじゃない」

 

 

 

わたしの中にはなくて。

 

 

そんな厳しくて過酷な世界、

わたしは見てない。見ない。

 

 

そもそも不安も感じていない。今この状況に。

 

 

 

奨学金の返済もぜーんぶで

400万?くらいあって、

貯金も数十万で、

毎月の支払いはあって

働く予定はいまのところなくて。

 

 

 

お母さんがうんと、熱弁していたなおのことも。

 

 

なおに、働いて欲しいだとか、

なんだろー、一般的なやつ、

しっかりして欲しいとか?

 

そういうの全く思わないんだよね。

 

なおが、社会一般的な「働く」が

できるとは思わないし、

して欲しいとも思わない。

 

 

ただ、

《自分の人生における、役目を全うする》って意味の「働く」は、できると思ってる。

 

それを軸に考えていくよ。

 

 

それで生きていけるかどうか、

現金が入るのかどうか、は、

結果のお話というか。

 

 

最初からそこありきに、

そこだけをがむしゃらに、

ってのは、なんか違うなあ〜って思うんだよね。

 

 

 

まぁなんか、とにかく、

生きていける、謎の自信があるんだよね。

 

 

 

とっても感覚的だから、

散々親とかには「甘い」と言われるのだけど、

 

時代はどんどん変わっていて、

新しいものがどんどん生まれてて、

お金の概念も溶けていってる。

 

 

 

 

 

可能性を見てたい。

信頼をベースに。

 

世界への、自分への、信頼を。

 

 

 

 

在り方だけ、どう在りたいかを、

ちゃんとわかってれば、

流れや、メッセージをちゃんと受け取れれば、

 

何かをしなければ!

 

って力を入れていなくなって、

 

人生は運ばれていくと思っている。

 

 

 

でも、お母さんの言う通り、

 

 

受け取ってるメッセージや

自分の思うことを信じて、

 

《決める》

そして

《動く》

 

っていうのは、とても大事ね。

 

 

それがいま、これからなんだろうなって。

 

やっぱり、

 

動くとき、ステージが変わるときなんだと思った。

 

 

 

お母さんとのやりとりを通して、

確かに「甘さ」もある、

論理的に話しされたら言い返せないところもあった。

でも、それでも、わたしは、このままでいいんだなあって、そう思えちゃった。

 

 

そして、そんなに躍起になるほど、

お母さんは、これまで社会で

大変な思いをしてきて、

だからこそ、愛から話をしてくれてて。

 

 

 

その想いは、ちゃんと受け取った。

 

 

 

インド前にも、お母さんとの関係が、

大きく変化したのだけど、

過去記事さようなら。被害者ぶってたわたし。許せなかったわたし。 - mayu76’s diary

 

また今回、おっきな、一歩だった。

 

 

それは、なんか、不思議な感覚で、

 

 

初めて、お母さんを、

 

いち人間として、感じれて、

 

その言葉の意味は、なんか、

前世ではうちら姉妹だったんじゃないかな

って思ったような、そんな、感覚。

 

 

 

 

謎に、《親子》という枠が、概念が、

 

わたしたちの関係を、よじらせていたのかもしれないなって。

 

 

ただの人間と、人間。

ただの魂と、魂。

 

 

そうに思えたなら、

 

母親のくせに!とか

親のくせに!とか

不平不満が出ることも、

 

「母親らしさ」に苦しめられたり

「理想の親子像」に苦しめられたり

することも、

 

母親からの、愛に、異様に執着することも、

 

 

なかったのかもなあ、と。

 

 

 

本来、ひととの関わりはぜーんぶそうなんだけどね。

 

 

知らず知らずのうちに、

関係性に囚われてしまうことがあるんだろうね。

 

 

 

 

44歳のみつえ と

22歳のまゆ。

 

 

ちょうど半分。

 

 

そんなわたしたちは、

ともに、人生初めての選挙に行ってきました。

 

 

いつも、

選挙用紙が届くなり、

ハサミでジョキジョキと切り捨てるお母さんが、(今回のも案の定捨てられていた)投票するだなんて、、!

 

誘ってみたかいがあったなあ(^ν^)

 

 

f:id:mayu76:20180606012905j:image