わたしとおばあちゃんのストーリー④
【生きている ということ】
昨日の夜、きぼうのいえに住む
なおものりちゃんも
亡くなった自分の大切な人を想い
冷たくない状態で硬くない状態で
また会いたいよ
と、言いながら泣いていた。
なんて美しいんだろうと思った。
生きてるとも死んでるとも関係なくただ、この胸にどうしたってある
だいすきだよ会いたいよ
愛してるよ
その想いを、在るがままに
解き放っている2人の姿が
わたしの胸の深いところに響いていた。
その夜、わたしは『西の魔女が死んだ』という
直がわたしに勧めてくれてた映画を見た。
そこにもおばあちゃんとのストーリーが描かれていて
わたしはなんだか直感的に
おばあちゃんに会わなければならない気がした
わたしのなかの
『会いたい、だいすき』を溢れさせることができたっていうのかな。
でもなんか、おばあちゃんに呼ばれてるような気もしていた。
だから今日の朝、おばあちゃんに会いにいくと決めて
いま、会ってきた。新潟の病院にいる。
おばあちゃんとはとうとう、ついに、
会話ができなかった。
言葉での意思疎通はできなかった。
ガンが脳に転移してからはわかりやすく変化してきてたけど
わたしはどこかで、
この時を恐れていたのだとおもう。
そこから逃げようとしてたんだとおもう。
だから、『会わなきゃならない』気がしたのだとおもう。
『お母さん、まゆだよ』(おばあちゃんのことはお母さんって呼んでる)
って声をかけるたびに
眉間にしわを寄せて
泣きそうになったり
重そうな瞼を開けてわたしを見てくれたり
スーースーーーっと息が深くなったりしてた。
言葉じゃ、計れない。わからない。
けど、たしかに、
『わかっているよね、お母さんのだいすきなまゆが来てることなんてね』と思うわたしもいた。
言葉じゃないものを、わたしは信じれた。
いっちばん最初に『お母さん、まゆだよ、来たよ』
って言った直後の写真が1枚目なんだけど
わたしには、笑っているように見えた。
わたしは、もうこの際だからと思ってめちゃくちゃ触りまくった。
ぱんぱんに腫れた足も手もさすって握って、
しわしわになった黄色い色をしたお腹も
手を当ててさわさわしてた。
おばあちゃんのおでこに何度も手を当てほっぺにも手を当ててむぎゅってして
わたしの指で勝手におばあちゃんの
口角を上げてみたり
おでこにキスをしたり。
触った。たくさん。
温かかった。血が流れているんだとおもった。
やわらかかった。
生きているんだとおもった。
言葉を話せなくても感情の起伏がなくても
コミュニケーションをとれなくても
身体が動かさなくても
認識ができなくても
おばあちゃんは、生きていた。
確かに、一生懸命に、いまを、これまでを生きていた。
何度もありがとうを言った。
言いたいこと全部言った。
だいすきも、愛してるも、ありがとうもまた家で一緒に過ごしたり一緒に寝たいなも
ずっとおばあちゃんを想ってるよってことも
全部全部、言いたいことを、言い切った。
おばあちゃん、いまこの瞬間、生きててくれて、
本当にありがとう。
2020.08.17