Mi amas vin.

My life is my message

愛するよ。わたしの強烈な種よ。

 

 

反応の種。

 

 

煮えくり返るような胸の感覚が生まれる種。

 

 

それだけの

恐怖が

傷が

悲しみが

そこには在ったってこと。

 

 

 

 

 

ただの、

 

ヤキモチ。嫉妬。

 

そう表現するとなんだか薄くて、軽い。

 

 

 

もっと深くて分厚いかんじ。

 

 

 

いつも苦しかった。

 

 

恋人の些細な行動・言動に対して

すごく不安や恐れを感じちゃって

異常なまでのヤキモチをやいて。

 

 

 

特に直は

 

相手へのピュアな想いが

あまりにもピュアすぎて

 

それがときに苦しい。

 

 

どれだけ本質的には

ただの『純粋な想い』だってわかってても、

 

 

子どもの頃の光景を

何度だって再現してるんだ。

 

 

 

自分の存在が

ただいていいって、

安心できなくて

常に不安で

 

かけがえのない命綱のような

お母さんという存在が

必ずずっとそばにいるって

安心できなくて

常に不安で

 

すこし、

外出をするときや

出かけるそぶりをするとき、

 

『もう二度と帰ってこないかもしれない』

『わたしは置き去りにされるかもしれない』

『わたしは見捨てられるかもしれない』

 

 

って、いつも思ってた。いつも怯えてた。

 

 

それはいまの直との間に

完全コピーされて現れる。

 

 

わたしたちが喧嘩した後とか

直が1人の時間が必要になって

1人で車に乗ってどこか出かけようとするとき

 

もう帰ってこないかもしれないって

『本気で』おもうから、

わたしはいつも瞬時に車の鍵をかくす笑

 

 

どうがんばっても、

鍵をわたして

いってらっしゃいなんて言えないんだよなあ。

 

 

 

そこに安心がないから。

 

 

 

 

 

安心がないから

ヤキモチを焼く。

 

 

 

 

自分たちの関係に

信頼があって、安心できてたら

ヤキモチ焼く必要ないもんね。

 

 

 

それが、

わたし  という人間の中に

確実にある、【いち部分】

 

 

 

 

 

 

でも

安心できずヤキモチ焼くわたしが

すべて100%ではないんだ

 

 

 

 

 

 

直と誰かの

純粋な想いのやりとりを、ハグを、ふれあいを、

 

 

 

愛おしく

微笑ましく

思えるわたしも

確かに、【いち部分】として、いる。

 

 

 

 

 

どちらのわたしもいる。同時に。

 

 

 

 

 

直に対して

 

 

まゆのことが気になりながらも

大好きなひとに

だいすきなままに

関われて、よかったね、おめでとう

 

 

と直に対して思ってる

わたしもこの【いち部分】としている。

 

 

 

 

 

いろーーーんなわたしがいる。

いろんな【いち部分】が存在・共存してる。

 

 

 

 

 

 

そのどれをも

否定したくないし

責めたくないし

抑え込みたくない。

 

 

しんどくなって

悪い空気を出しちゃうときとか

直に対して距離を取っちゃうときとか

 

 

直にも

相手にも

 

申し訳ないなあって

子どもっぽいなあって

 

おもうわたしもいるけれど、

 

 

子どもだもの。

 

そこに

わたしのなかに

い続けてるのだもの。

 

確かにこの胸の中に。

 

 

 

小さく小さく、膝を抱えながら。

 

 

 

 

やっぱり、

ないことにしようとするよりも、

 

 

 

種を感じてるねって

さみしいねって

苦しいねって

胸が痛いねって

不安だねって

こわいねって

 

 

認めてあげて

そのままに、泣いたほうが

スッキリする。

 

 

自分の中にいる

 

子どもを子どものままに

泣かせてあげることで初めて

 

その子は笑えるんだ。

 

 

 

変なジャッジを頭はついついしてしまうんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

今日も

ふたり戯れて

肌をさわりあって

頬をなでて

一緒に泳いで

水の中で抱きしめあって、

 

そんなふたりを眺めながら

 

しんどかったなあ。

苦しかったなあ。

 

 

保育園児の子どものようなピュアさがそこにはあるのだけど、どうしても、そうじゃないフィルターをかけて見えてしまう。

 

 

 

そんなふたりのさいこうにはっぴーな姿

見ない方が絶対に楽なのに、

 

絶対に見ちゃうんだよね。笑

 

 

 

おもしろいや。笑

 

 

 

 

 

3人で体を寄せ合って

くっついて戯れてごろごろしたときは

すんごく幸せだった。

 

 

3人一緒だと

そこにはただ

保育園児のような

ピュアな想いと愛だけとになって

わたしはその瞬間、その時間が

たまらなく喜びなんだ。

 

 

 

 

 

でも、いろんなシチュエーションにより

わたしが外れて

 

わたし1人

直と女の子2人

 

 

ってなると、その種は発動する。

 

 

 

 

 

その時、

直の気持ち、意図

その子の気持ち、意図

 

ほぼほぼ、関係ない。

 

 

もう、

わたしが

わたしのみで

わたしの過去から

作り出している世界。見え方

なんだよね〜〜。

 

 

 

 

わたし、お兄ちゃんがいたんだけど、

 

小さい頃親が離婚して

お兄ちゃんは、父親の方にいって

わたしは、母親の方にいった。

 

 

そのことを申し訳ないと思ってたお母さんは

 

 

たまにお兄ちゃんが

わたしたちのアパートに遊びに来て

親子3人になるときは

お母さんが

すんごくお兄ちゃんに優しかった。(ように見えてた)

お兄ちゃんだけえこひいきしてるって思ってた。(お兄ちゃんはそのえこひいきされた自覚ないし、お母さんもそんな認識もってなかった)

 

 

 

だからほんとに、

わたしが作り上げてる世界だった。

 

小さい頃の

孤独の記憶から。

 

 

 

『お母さんは、お兄ちゃんは好きだけどまゆのことはどうせ好きじゃないんでしょ!まゆなんていなくてもいいじゃん!』

 

みたいなセリフを

何百回と言っていた小学生時代。笑

 

 

その度に

 

「まーたヘソ曲げて」

 

ってお母さんに言われてた。

 

 

 

 

たぶんそのすべての始まりは

ほんと記憶ないくらいわたしが

小さい頃とおもう。

 

唯一覚えている、

雷のなる怖い日の夜中に

ひとりでいた記憶

 

言葉を全く話さなかった幼少期

 

 

 

ありとあらゆる方法で

その孤独から

そこ恐怖から

その傷から

わたしを守ってきてくれた。

 

 

それほど強烈な種だった。

 

 

 

 

 

でもその種は、

 

わかりやすい直からの

言葉や、スキンシップで

 

一時的にはごまかせる。

 

一時的には安心できる。

 

でも、そんなのまやかしだから。

 

 

そんな、ホッとしかたは、

おんなじことを延々と繰り返すだけだから。

 

 

それをわかっているから、

その種が発動したときは

 

直に近寄られても離れてしまう。

直にハグしようって言われてもハグはできない。

 

 

それはもちろん

悲しみからくる直への怒りも

理由にはあるけれど、

  

 

究極

そこで何したって

わたしのこの種は無くならないのだ。

 

 

 

直が何を言っても

直が何をしても

 

この種は消えない。

 

 

パッと見で

わたしの

欲しいように

欲しいものを

渡してくれたとしても

それで安心したとしても

それは外側の世界。

 

 

その

わたしじゃない

『だれか』『なにか』がなきゃ

立ってられないわたしになる。

 

 

 

わたしが、

受け入れて

わたしが、

認めて

わたしが、

泣かせてあげて

わたしが、

寄り添って

わたしが、

愛したときに

 

 

その種は昇華されてゆく。

 

 

 

 

それをわかってるから。

 

直と距離を取りたくなるんだって今日わかった。

 

 

 

からしたら、

 

純粋なきもちで

好きなひとと

好きの気持ちのままに関わったら

 

 

もう一方の大切にしたいひとと

険悪になってしまうっていう

 

少しかわいそうな感じではあるけれど、

 

 

それが事実。

 

 

 

 

 

わたしが直とどんぱち喧嘩してるときには

絶対的な関係性への安心と信頼があるのに

 

こういうわたしの元々ある種が反応するときには

関係性への安心も信頼も全くない

 

 

この差、

この違いが

ほんとうにおもしろい。

 

 

 

 

 

 

均一的なものなんてないんだなあって。

 

 

 

常に変化し続ける。

 

 

 

 

  

 

今日そのなかよく戯れてたわたしの愛しきお友だちは

 

 

 

『そうだね、その種が出てきたら愛してあげて、出て来てくれてありがとうって。

 

ここにいるって受け入れて。

 

いつかはまゆから巣立っていく種だから
今ある事を感謝して。

 

愛は自分を、地球を、すべてを救うよ。

 

〜中略〜

 

また会いましょう。
愛をありがとう
心より愛を込めて

Be Happy  』

 

 

 

って、ばいばいしたあとに言ってくれた

泣きそうになった

 

 

 

たしかに、すべては変化する。

 

つまりはいつか昇華されて、わたしのなかから、いなくなるときくる。そのときにこの種をなつかしんで愛でられるほどに、味わいつくそう、っておもった。

 

これ、何度も言ってるけどね。笑

何年もかけて向き合ってるけどね〜笑

 

でもその中でほんとーに

すこーーーしずつ変化や進歩があって

わたしはそれがすごくうれしいし、

そういう小さな『気付き』を大切にしていきたいな。

 

 

 

 

あとはこれ、本当にほんとうに

感謝してるのだけど

 

 

 

わたしたちが仲良くするひと(女の人)

みーーーんな、

直との関わりで

わたしのこの種が発動しても

 

変に罪悪感とか感じたり

気使いすぎたりしないでいてくれるの。

 

 

 

まゆに種をギフトしてよかったわ

 

くらいでいてくれるの!

 

 

それがほんっとうにさいこう!!!!!!

 

 

 

わたしがわたしのままに

わたしのなかにいるこどものままに

 

怒って喚いて泣いても

 

ひとつも怒らないし呆れないし

また会ってくれるし、そこにある愛は変わらないままでいてくれる。

 

 

 

それってすべては、

どんな状況になろうと

どんな感情が吐かれようと

 

【その人の種から生まれるものでしかない】

 

っていう前提を分かち合えているから。

 

 

変に

混同しないし

癒着しないし

 

ある意味で愛という名の、

【個の輪郭】が、そこには確かにある。

 

 

 

 

そんなしあわせなことってないよなあ、とおもう。

 

 

 

わたしは安心して、怒れるし

わたしは安心して、悲しめるし

わたしは安心して、泣ける

 

 

 

そんな環境を、雰囲気を

与えてくれる人間関係は

たからものだなあと感じる。

 

 

し、わたしもだれかにとっての

そんな存在でありたいなあ、とかんじた。

 

 

 

支えられ   あいながら

支え  あいながら。

 

 

 

ぐるぐると、

優しさの輪が

愛の輪が

循環していく。

 

 

そのことをまじまじと体感した今日この日でした。

 

 

 

 

 

わたしの周りにいるすべての人よ、

 

わたしが好き勝手に

「わたし」を生きることを

見守ってくれて

寄り添ってくれて

本当に、本当に、ありがとう。

 

 

 

 

わたしはこの、

わたしのなかにずーーっと

確かにいるこの種を

辛抱強く

なかよく、向き合いながら

愛していこうとおもう。

 

 

 

あゆちゃん、

直への愛を分かち合えて

わたしはとってもうれしいよ!

ほんとうにだいすき!あいしてる!

 

直、きょうも、わたしたち、生きたね。

本当にありがとう。らぶゆー。

 

今日のこと、なお目線ではこちら↓

ともだち - おにぎり ころりん すっぽんぽん

 

 

ふたり、愛してるよ。こころから。

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