Mi amas vin.

My life is my message

わたしの幸せと、親の幸せ。

 

わたしの育ての親であるおばあちゃん。

 

 

わたしが小さい頃

いろいろ大変だったわたしのお母さんをみかねて、

 

 

「あなたは母親失格です。まゆはわたしが育てます。」と言い、

 

 

引き取ってくれた。

 

 

 

 

そのとき、

この子にはもう寂しい思いをさせまいと、たっぷりの愛情を持って育てるんだと、覚悟したんだと、後になって、おばあちゃんから聞いたことがあった。

 

 

 

事実、

おばあちゃんはわたしにたっぷりの愛情を注いでくれた。一番の理解者だった。おかげで、小さな頃言葉を喋らなかったわたしは、今やこんなにも人がすきでおしゃべりが好きで天真爛漫に育った。

 

おばあちゃんのおかげだと思っている。

 

 

 

 

そんなおばあちゃんが、末期ガンになった。

 

 

 

 

これまでおばあちゃんから受け取った愛と

共に過ごしたたのしかった日々と

いろんなものが、

走馬灯のようにわたしの頭を駆け巡る。

 

 

 

ぶれてしまう。

 

ついつい、

おばあちゃんの望むように

自分が動いてしまいそうになる。

 

 

 

でもわたしは、はっきりと決めたんだ。

 

 

 

親の期待や希望、願望に『応える』ことだけが、親を愛するということでは、ないということ。

 

 

 

わたしは、『わたしの』願望や期待に応えてこそ、「わたしがわたしになる」。

 

 

嘘偽りのない『ほんとうのわたし』で、

愛を伝えるんだって。

 

 

そう、大学を辞めるという決断をしたときに決めた。

 

 

 

大学を辞めると言いだしてから

おばあちゃんは毎晩泣いたり、

体調を崩したりしたけどね。

 

 

おばあちゃんにとっては、

まゆが大学を出て、きらきらと学校の先生をやるってことが、何よりの望みだったから。

 

 

 

そこには、ただ、

まゆがまゆらしく、輝いてほしい

っていう純粋な想いがあると思うんだ。

 

 

 

だけど、ついつい、形に囚われてしまいがちなんだよね。

 

 

 

わたしは大学や、公教育には、

こころの【違和感】ってものが

確かにあった。

 

 

その違和感を、そのままにはできなかった。

 

誤魔化しきれなかった。わたしが本当に感じてることを。

 

 

その大きな背中押しをしてくれたのが、直だった。

 

 

 

だから、

おばあちゃんにとって直は、

 

まゆと出会わないで欲しかった存在。

 

 

そんなようなことを、

ついさっきの電話で言われた。

 

 

「わたし、まゆが直と出会ったことが人生で1番ショックなんよ」

 

 

って。

 

びっくりしたし、悲しかった。

 

 

「普通の男性だったらよかったのに。女性だなんて、、」

 

 

って言ってた。

 

 

 

あーこんなにもリアルに

 

わたしの幸せが

おばあちゃんの幸せにならないってこと、

 

 

胸が痛いなあと感じた。

 

 

 

そこには

おばあちゃんの中にある

当たり前や常識、世間体、体裁があるから、

そこはわたしには、どうしようもない。

 

 

 

普通に結婚して

普通に子ども産まれて

普通に働いて

普通に収入を得て

まゆは教師をして輝いて

 

 

そんなものを望んでる。

 

 

 

自分の人生をかけて、

愛したという、育てたという、

そういう自負があるからこそ、

ついつい、子供の人生を自分の一部と同化してしまうんだろうね。

 

 

まゆが、

おばあちゃんの思うように、望むように、生きてくれるのがおばあちゃんの幸せって。

 

そんな風に感じた。

 

 

 

 

今度は『死』。

 

 

余生をまゆと過ごしたいと言われた。

 

 

でもわたしは、

わたしの道を生きたい。

 

 

その場所は新潟の実家の家ではない。

 

 

わたしは、

なにかを我慢して

直とも離され

おばあちゃんの期待に沿うことが

やりたいことではない。

 

 

わたしは、わたしのいのちを生きて

輝くこころで、

 

育ててきてくれて、

ありがとうって。

 

愛してるよって。

 

幸せを祈ってるよ。

 

って、そう伝えたいんだ。

 

 

 

 

 

 

死を前にしても、

 

それでもなお、

 

わたしは、わたしの道を、選べるか?

 

 

 

 

そんなところに、いまはいる。

 

 

 

 

 

分かり合えるはずなのに、

分かり合えない。

 

たしかにそこには、

愛や純粋な想いがあるのに、

世間体とか常識とかいろんなものが邪魔をして、

 

分かり合えないような

愛がないような

大切じゃないですよって言ってるような。

 

 

そんな風になるのが胸が痛いなあ。

 

 

 

 

 

それでも、わたしは

 

わたしに嘘ない選択をしよう。

 

 

 

大切な人の死を前にしても

わたしにとってのわくわくを選ぼう。

 

 

 

これまで受けた愛を手に握りしめ、

おばあちゃんの望むように

わたしが動いて、

あとから、

あれがしたかったのに!

ほんとはこれがよかったのに!

って、そんな文句をおばあちゃんには言いたくない。

 

 

わたしも、わたしに、言われたくない。

 

 

 

 

 

 

 

だから、愛を持って。

 

 

わたしは、わたしの道へ。

 

 

 

 

おばあちゃん、ありがとう。愛してるよ。

 

 

 

 

 

新潟に住みはしないけど、会いにいくよ。

 

会える日を楽しみに、

わたしはわたしの場所で、

めいっぱいに、生きるね。

 

 

おばあちゃんも、

おばあちゃんのいのちを

めいっぱいに生きれますように。

新潟の地で、しあわせでありますように。

 

 

Mi amas vin

 

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