群馬での今、ヴィパッサナー。
その人によって傷つけられてるようで、
その言葉によって傷つけられてるようで、
その人によって責められているようで、
その言葉によって、責められているようで、
真実は、
そのどれも当てはまらない。
すべては自分の中に、種がある。
その人が、その言葉が、その状況が、
心の傷になる種が。
この人は、何ができるか。
この人は、何を持っているか。
そんなものばかりで、人の価値や評価を。
その〔目〕は、自分にも向く。
何ができるか[doing]
何を持っているか[having]
そこと、自分の価値、評価をつなげる。
そうなると、
何かができなきゃ、ダメなんだ。
何かができなきゃ、ここにいられないんだ。
何かができなきゃ、価値がないんだ。
何かを持ってなきゃ、ダメなんだ。
何かを持ってなきゃ、ここにいられないんだ。
何かを持ってなきゃ、価値がないんだ。
何ができなくても、
何を持ってなくても、
ただ、存在しているという、生きているという【being】に、自信がなくなる。不安になる。
学校の通知表とか、面接とか、就活とか、そもそも自分の価値や評価が、外側に判断されやすいこの世の中では、陥りやすいものだけど。
わたしは、いちばん近い人との関わりで、これが顕著に、大きな反応として出る。
いろんな材料をつかって。
もうなんでもいいんだよね。
ささいな言葉とか。
どうしてそんなにも
【敵ばかりだ。責められている。そのままではダメなんだ。何かより誰かより劣っている自分は価値がないんだ】
っていう《色眼鏡》を通して、目の前の現実を見るのかなって。
そうやって自分で自分を傷つけて、
その悲しみや、苦しみ、胸の痛みを、
直に投げつける。攻撃として。
直はわたしを責めたいわけじゃないのに、
責めてなんかいないのに、
なぜかわたしによって責められ、傷つく。
(とんでもない、とばっちりだよね。笑 本当にかわいそう。胸が痛い。ごめんなさいっていつも思ってる)
わたしが、現実を、あるがままに、観れていないから。
そんな色眼鏡を外した、
ありのままの、
そのままの、
あるがままの、
現実を、
観れる、
【明晰さ】を。
『ヴィパッサナーによって、育める』
ということを、わたしは知っている。
確信している。
いつものように、なにかの言葉で、反応する。
嫌な感情が生まれる。
自分の中が、心地悪くなる。
そこで、すぐ自分の《体に生まれている感覚》と自分の《呼吸》に、意識を集中させる。
すると、あんなに、ぶわあああって盛り上がってた怒りの感情が、すーっと引いている。
その事実に、表情、発言、思考などの、側の自分を合わせるのが難しいほどに。
一瞬の、大波のように。
一瞬の、暴風のように。
一瞬の、にわか雨のように。
それは、過ぎ去っていく。
その【移り変わり】を、しっかりと、感じる。理解する。認識する。
【移り変わり】=アニッチャ。(パーリ語)
ものごとは、すべて無常。
すべて移り変わっている。
生まれるものは、必ず滅びる。
この世のすべては、生成と消滅の連続を繰り返している、現象に過ぎない。
ヴィパッサナーは、ほんとうに『生きる技』
いま、この群馬で、ささいなものを使って、反応を起こして、過去のサンカーラー総ざらいに引き出して、大嵐&大掃除してる最中だ。
苦しすぎるけれど、
(や、ほんとは、真実は、そんな苦しくないんだとおもう。お花畑でボクシング。)
それは通って然るべき道。
大嵐で、大掃除してるんだって、
俯瞰してみれるときは、
おもしろい
って思える。これがやりたいことだなって。
久しぶりのブログだな。
ほんとはセンターを出てすぐに、ヴィパッサナーのこと、わたしが感じた恩恵のこと、たくさんアウトプットしたかったけど、
わたしの内側も、どんどん移り変わってて、過去に感じたこと、書こうと思っても、今は書けなくて。
とにかく
【理にかなっている】
ということだけ、今書いておこう。
体の感覚が、自分の潜在意識と繋がってる。
体の感覚を見ることが、潜在意識にアプローチすることになる。
人がどんなに
『ありのままの自分を愛そう』
『すべてを受け入れよう』
『相手を許そう、自分を許そう』
って言ったところで、それは思考や、感情の、顕在意識でのあれこれ。それは100%のうち、たったの2%
氷山の一角。
だから、そのときは、そうに思えて
今度からはこうしよう、ああしよう
と思ったって、
人の心の習慣、癖は変わらない。
同じことを何度も、何度も、繰り返す。
その心の習慣、癖は、潜在意識【無意識】によるものだから。
わたしがそうだった。
過去のブログに散々、
すべてを受け入れることだ
自分を許すことだ
どんな自分も愛することだ
たくさん書いてきた。
何度もそう思ってきた。
でも、ただ【思うだけ】、【頭の中で決意するだけ】では、何も変わらなかった。
同じことを繰り返してた。
でもいまは、確実に違う歩みをしている。
体の感覚は、常に心と接触している。
感情や、思考とが生まれるときは必ず、
体にも感覚が生まれている。
コインの裏表のようなもの。
人が、感情を観察することは難しい。
怒っている時に、怒りの感情を観察しようとしても、むくむくと怒りが膨れ上がっていくだけ。
その人が、自分を不快にさせたのは、たったの一度なのに、自分の頭の中では何度も何度も、同じ言葉や同じ状況が、リフレインする。
過去の、
あのとき〜だった
このとき〜だった
っていうのも、どんどん芋づる方式に出てくる。
でも
体の感覚に気付くことなら、
呼吸に気付くことなら、できる。
そこに意識を向け続けていると、
怒りの感情は、静まっていく。
何度も何度も、これでもかってくらいに、しつこく、しつこく、生まれては消え、生まれては消え、を繰り返す。
そのことにただ、気付いている。
自分の体の枠組みを使って、
宇宙の真理である
移り変わり・無常【アニッチャ】を
理解していく。
わたしはこれを、
すごくおもしろいなって思う。
最後にセンター滞在中のインスタ投稿をのっけて終わろう。
動きも、予定も、人生の流れも、予測不能なわたしたちですが、とっても、すてきな人に囲まれ、すてきなところで、一瞬一瞬を噛みしめながら、いま、生きてます。目の前の奇跡に目を開きながら。
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この、豊かな自然の中で、自分の体の枠組みで自然の摂理、真理を理解しながら、自分の中の苦しみと向き合い、心の濁り、縛り目をヴィパッサナー瞑想によって浄化する。その都度たくさんの気付きがある。自分の中の渇望、嫌悪、無知、執着。そしてアナスタシア曰く人間でもっとも重要な、意識の明晰さを瞑想によって育む。そのひとつひとつの瞬間が、いま、とても大事な時間になっています。愛と慈悲の瞑想をするときには、すべてへの許しと、すべてへの愛と、奇跡と感謝とで、胸がいっぱいになる。ただそれも、移り変わること、生まれては消えることの理解を忘れては、執着になる。
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ただ、生きてること。ただ、息してること。それを感じる。それを見つめる。そして周りを囲ってくれてる自然、人、それがどれだけ愛の存在なのか、どれだけ幸せで奇跡的なことなのか、そのことで胸がいっぱいになる。
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ヴィパッサナーを通して、自分がよく見える。と同時に、「自分」なんてないのだとわかる。生まれる苦しみのわけを、原因を、種を、理解する。自分の〈内〉が変わることで、目に見える〈外〉がこんなにも変わるのだと実感する。それは、人と人の間に流れるものも。1番近い直との関係も、この1ヶ月の間に目まぐるしく移り変わっている。その瞬間瞬間に。すべては「無常」。生まれては消える。人間の細胞も、感覚も、感情も、いのちも、すべて。その移ろいの儚さを、時に涙とともに受け入れる。
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認識があり、知覚が働き、感覚が生まれる。そして最後4つ目の働きの「反応」。ここで、浄化の道か、種を植えるか。どんなカルマをつくっていくか。
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この7月の1カ月は、奉仕者として、コースを運営する側で、瞑想とごはん作りの日々だったけれど、次の8/4からのコースは生徒として、11日間座ります。とことん自分の核と、向き合おう。
8/4から10日間座ったときのシェア、そのうちできたらいいな。と思っている。
こんなお花畑のような現実が、あるよーわたし。