mayu’s diary

感じたままを、ありのままに、正直に。

2度目のヴィパッサナー瞑想 in インド

 

まずは。

さすがインドだった。瞑想中、日本だったらシーーーーーンとした空間。こっちではみな、ゲップもオナラもあくびも、すべてが盛大だった。

 

日本では、静かすぎて、息を飲むのも鼻をかむのも咳をするのも、緊張が生まれていたわたしにとっては、インドという空間での瞑想はとても気が楽でいれた。

 

そしてインド人、

この瞑想中に、構わず周りを気にしない感じ、

食事で並ぶ時に平気で割り込みする感じ、

周りのこと考えずに自分のペースを守りきるスタンス、

 

ああ、わたしは、このインド人たちを許せたとき、もっと生きるのが楽になるのだろうなあと思えた。

 

 

そして10日間コースは

わたしにとって、ほんとうに大切な時間となった。

内容は普段ケータイのメモに書き留めてる

内面日記をそのまま貼っつける。激長だけれど。

 

その前に簡単にヴィパッサナー説明してみると、

 

ヴィパッサナー瞑想は宗教でも宗派でもなんでもない。とても科学的で理にかなっている。

宇宙の真理というものを教えてくれる。

 

瞑想中はひたすら、体に生まれている《感覚》を《客観的に観察》する。どんな感覚が生まれていても《平静さ》を保つ。そして、どんな痛みもどんな苦しみも一生続くものなどなくて、すべてのものは生まれては滅びる、という《生成と消滅という真理》を自分の体の枠組みの中で理解していく、というもの。

 

旅人がヴィパッサナーに辿り着くことが多く、日本ではコースで出会った人みな、枠から外れたおもしろい人、旅人ばかりだった。大学を辞めた人率もめちゃめちゃ高かった。

 

以下メモ。

 

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【2月17日】

インドでのヴィパッサナー瞑想10日間コースが終わった。

何から文字に起こせばいいか。

まずは、とても大切な時間になった。

ようやく、いち小林茉優としての、
進む方向というか、

どう在りたいのか、
わたしにとっての「自分の足で立つ」ということ、

それが、何の外側からの言葉で張り付けられずに、
100%自分の中から、純粋に、湧き上がってきた。

 

これまでの自分は、
なおの中から生まれてる言葉と
自分の中とを混同していたと思う。
そのことに気がつくことができた。

距離が近ければ近いほど、
大切な存在であればあるほど、
混同しやすくなるのだと思う。

 

より近い関係になりたい
より末永く一緒に居られるよう
価値観や考え方を相手と合わせたい。

そんな思いがあった。

 

それを認めたその上で
でもそうではなく、
わたしの中で純粋に気付いたこと。
それは、

 

《自分の中に生まれる怒りや憎しみ、情欲、悲しみ、惨めさ、それを他の人に投げつけないこと。周りからも受け取らないこと。そしてやすらぎの中で、溢れる愛の中に生きる》

ということ。


それがわたしの中での、「自分の足で立つ」ということだと。

 

 

そして、
360℃周りに愛と感謝を持って、今この瞬間の奇跡を感じながら生きていたい。

それがわたしの在りたい、在りかた。

 

そこに横のつながり(今でいえばなおにあたる)が、あったらそりゃあすごくいいけど、まずの前提は360℃なんだなって。

そう、思った。

 

 

そして、

ここまでの言葉で使ってる「愛」というものは、いまわたしの中にある《利己的な愛》の先にあるのだということ。

 

人間とは利己的な生きもの。
「あなたを愛しています」という対象に対しては、自分の中での期待や願望がこもっている。だから、決してその人を愛しているのではなく、ひとは自分だけを愛している。

 

(だからある意味、家族の期待や願望を裏切って、自分1人覚悟を持って大学を辞めるという選択をしたことは、わたしと家族とを《本当の愛のステージ》に立たせてくれたのだと気づいた。)

 

そのような内容を講話で聞き、まさに、自分だ、と思った。

 


わたしがなおに対して持っている「愛」
それは利己的な愛にすぎなくて
わたしはわたしを愛しているだけなんだと。

まずはそれを認めることからなんだ。


「こんなゆるやかで心地のいい関係でいたいなあ」
「こんな食卓を2人で囲んでその幸せの中に生きてたい」
「自分がこれまで見てきた[すてきでいい感じの夫婦像]に自分もなりたいなあ」(2人とも戸籍は女だから、法的には結婚できなくても、周りから見られたときに、夫婦、みたいな、そんなパートナーでいたいっていう、強い思いがある。ここはすごく重要な、握りしめてる何か。)

 

 

そんな期待を、
そんな願望を、
わたしはなおに対して持ってる。

だからそばに居たくて
だから「愛してる」と言うのだと、
それを、そのことを、利己的な愛を、
自分の内に認めること。


そして、瞑想中に、ふと、いきなり出てきた
思いつきというか、イメージがあって、それは、

なおが、
いまあるものを剥いで、剥いでったら、
なおの在りかた、姿というのは
結果として【女性】に分類されるところに行き着く、というもの。

これがふと、自分の中に降りてきた。

 

でもそれっていうのは
利己的な愛を持つわたしが《望まないもの》

だってそこには、
わたしの期待する、願望するイメージはないから。
一気に別物になってしまう感覚が、いまのわたしには、ある。

 

それをイメージするときはいつも
何とも言葉にできない感覚が体を支配する。

複雑。と一言で言えば簡単だけど。

わたしはこれまで男性と付き合ってきて
分類されるならヘテロ
そして、同時に【レズビアンと思われたくない】そんなものも握りしめてる自分がいる。

(これはなおも同じだった。2人して「レズビアンに思われたくない」という同じものを握りしめてて共にいること、ほんっとうに、おもしろい。)

 

 

桑原直(子)という、
女性として生まれ
トランスジェンダー の診断を受け
おっぱいを取り
名前の(子)をとり
男性ホルモンを打ち
ヒゲやすね毛は生えてて
頭は坊主で


でもヴィパッサナーを機に、男性性への渇望と女性性への嫌悪から生まれる苦しみから解放され、ニュートラルで心地いいところを目指す。そのために
【自分の中に確かに存在する女性性を嫌悪せずに受け入れていこう】という流れになり、

ホルモン注射を辞め、
生理が始まり
筋肉が落ち
毛も薄くなっていってる
髪も伸びてる
そして何より顔が変わった。まとう雰囲気も変わった。より柔らかく女性的になってる。

いまのところ社会的な分類は男性の中にいるけれど、
ひげとすね毛剃れば女性でもいけるかもしれない

 

という、超絶グレーな人間と
付き合っていながらにして、
そんな超固定的な概念も握りしめてるなんともな矛盾。

そんな矛盾を受け入れよう。

 

そしてこっからが大事で、

そんな余計なものをとっぱらうにも、
利己的な愛を卒業するにも、
なおが、女性に近付くことってのは
まさにどんぴしゃで、もってこいで、1番の方法なんだということ。

 


【なおが女性らしくなっていく道=わたしの中での本当の「愛」の始まりとなる】んだということ。

 

 

それに、気付いてしまった。

そうなったとき、いまのわたしとなおとの関係性の色・カタチは、また変わってくるのだろう。

 

それに気付いた瞬間、
頭は猛烈に抵抗した。
それは外側の自分が、望むものではないから。

 

でも、気付いてしまったんだよね。
そう、わかってしまったんだよね。

 

わたしがなおに対して抱く
こう在りたい
こんな人生を2人で歩みたい
そういった期待願望を、手放すときは、近いのかもしれない。

 

そして、結果として女性に分類される、
そのなおの姿を、目の前にするときも
そのうち来るだろう。

 

そのとき、わたしは
レズビアンに思われたくない】という
余計な概念に縛られずにいれるのか、
なおと、
自分の在りたいように在れるのか、
自分の接したいように接せるのか。

それを見る日が来るのだろう。


ヴィパッサナーが終わり
10日間なおと離れていた。
そして今日10日ぶりに顔を合わせたとき
他人行儀に、よそよそしくなる、自分がいた。
それは前の日本でのヴィパッサナーでもそうだったのだけど、また今回も、
このなおと、触れ合ったり、ハグしたり、キスしたりすること、その感覚がどこかへ飛んでっちゃったような自分がいた。

あれ、わたしこの人と、恋愛的なことしてたんだよね?って。(この「恋愛的」って言葉から自分の固定観念に気付いたいま。)

どこかなおとの心の距離は遠いような。
この感覚は今後どうに変化していくのか。

明日から数日ステイする。
もう一度自分の奥深くと繋がろう。

 

あ、もう一つ、コース中にあった大きな確信。
それは、この10dayコースを機に、
【反対方向に車輪を回し始めるときなんだ】ということ。

 

これまでは《感情のままに生きる》ということをモットーに、自分の中に強い感情が生まれたときそれを我慢せずに生きてきた。

 

喜びなどのプラスの感情はもちろんのこと、
マイナスの感情も大切にしたくて、

怒りが生まれたときはそれをそのままぶつけて
悲しくて泣きたいときは涙が枯れるまで思いっきり泣いて、
悲しいときは悲しみを味わいつくす。

 

それが、人間らしくて、いいと思ってきた。
感情に対して《我慢》をしたくない、と思っていた。

 

感情的な自分を、どこか、それでこそ私だ、と自分を立たせていたわたしがいた。

 

でも、ヴィパッサナーの世界に入り、宇宙の法を知っていくと、
否定的な感情は、外に吐き出すと消化されたように見えて実はより潜在意識に刷り込まれていき、どんどん心の深くに溜まっていく。
そして心の汚濁に溢れていくのだと気付かされた。

 

これまで渇望の多くを恋愛に求めてきたわたしは、なおとの関わりにおいて本当に本当にたくさんの、サンカーラー(反応・反発)を生み出してきた。濁りを生んではそれをなおにぶつけてきた。怒りや憎しみや悲しさや惨めさをたくさんなおに投げつけて、たくさんなおを傷つけていた。


それは宇宙の法で、同時に自分にも返ってきてて、その濁りは心の奥深くへと刷り込まれてってた。固い岩に掘って掘って掘りまくってた。

 

 

でもこれからは、そんな心の濁りが生まれる度に、体の感覚を観察し、平静さを。すべてのものは生まれては消える。移り変わる現象にしか過ぎないということ、アニッチャを自分の体の枠組みの中で理解する、というヴィパッサナーをしていくんだ、と。

 

これまでとは、真逆のことをしていくんだと、それはすなわち、【ダンマの車輪を本来の正しい方向に、回し始めるのだ】と、そう確信した瞬間があった。

 


この10dayコース、自分の在り方の変化を感じれるからおもしろい。
瞑想の時の、自分の在りかたから、
講話で何が耳に残るのかから、
自分が前回の千葉での12月のコースから、
どう変化しているのか、気付かされることがいくつかあった。前回は性への渇望が凄まじかった。そのおかげか、今回は性はそこまで出てこなくて、食への渇望がすごかった。

 


コースごとに感じるものも、気付くことも、得るものも違う。それは当たり前なのだけど、おもしろい。

 

 

そしてこのインド。やっぱりすごい。
最後のメッターが終わり、すべてが終了したあと、パゴダに祈りを捧げた。
その行為の際、手を合わせ、涙を流すインド人がたくさんいた。
この感覚、ほんとうに神秘的で崇高だと感じた。

インド人の涙を見て、なぜか自分の目にも涙が浮かんだ。

この感覚を持って、またインドで10dayコースを受けたい、そう思った自分がいた。

神への敬意、
目に見えない存在への敬意、
そこに近いところに生きる人への敬意、

なんてすてきなんだろう、と感じた。

 

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コースが終わり聖なる沈黙が解けて、なおとてぃんくると会話をして、いくらか時間が経ち、なおに対しての感覚とか、自分の中で変化してるものもあるけれど、これはこれで、このまま残しておくとする。

 

 

 

いま、まさに揺らぎの中にいる。

わたしも、なおも、てぃんくるも。3人とも。

 

これからどうに転がっていくのか。

残り9日間センターで過ごす時間、何が生まれ何が変化するのか、しっかり見つめていこうと思う。

 

 

3人でコースに参加し、

10日間終わった後の、インド人を交えてのみんなでの記念写真で、おしまい。

 

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