まぐ愛。未知なる世界への招待。
ミニくわにキスをしながら、
ありがとう、
ごめんなさい、
ゆるしてください、
あいしています。
と心の中で唱えた。
そうしたら、なおの目からは涙が溢れていた。
きっとこの、目には見えない、波動というのかエネルギーというのか、愛と呼ばれているのか、その【何か】はこんなにもリアルに届く。
人間の手には力があって、
だから「手当て」という言葉が存在してたり、
おにぎりの持つパワーがあると思うのだけど、
それは、人と人との間での
触れ合いや、スキンシップにおいても、
さらにいえば、せっくすにおいても、
力を発揮するというか、
むしろその、
自分にとっての[繋がりたい人]との、
エネルギー【想い】のやりとり、
それこそが本質なのだと思う。
そしてもっと言えば、
これは手からのみ、溢れるものではなくて
全身から出すことができるのだと思う。
せっくすって、ほんとは、そんなものなんじゃないかと思いだしている。
なおという人間と出会って始めて感じてきたもの。
それは
お互いに触れ合いながら、
目と目が合うその瞬間に
じわ〜〜っと心の中に溢れてくる何かがあって
それが涙として流れる、
みたいな。
それが、2人同時に。
そんな感覚、そんな時間、そんな瞬間は
いままでのせっくすの時間にはなかった。
スキンシップ的な触れ合いと
性的な触れ合いの境界線が溶けること
心地よさの感じると
性的な感じるの境界線が溶けること
その先に
わたしの望む、すてきな「まぐ愛」の世界があるような気がしている。
(これは小林煌さんというすてきなひとのつくる版画カレンダーの裏紙)
この写真のなかの文章で
《セックスのゴールは精子たちが飛び出すことでも、子どもができることでもない。愛と愛が響き合って、そこに光が産まれること。》
とある。
ここで「生まれる」ではなく「産まれる」と表現しているのがなんともすてきだなあと思うのだけど、
ここでいう光。それは生命だとわたしは思う。
ほんとうの、まぐ愛がなされたとき、
生殖行為がなくても、
生命がうまれること、あると思う。
そう断言できちゃうわたしがいる理由は、
去年の12月、千葉での
ヴィパッサナー瞑想10日間コース中に
【受精卵を口から吐く】という夢を見たから。
奇想天外だよね。笑
たかが、夢。されど、夢。
この夢を見た意味、確かにあると今思っている。
吐いているその地は、インドだった。
いま、わたしはインドにいる。
そして、その受精卵を1番に見せに行ったのは、なおだった。
そして、この夢と現実とが、ぽんぽん繋がってきていて、
先日、わたしのこの夢のことを知らない人からある話を聞いた。
それは、
すでに、性行為なしで女性間で子どもができた人たちがアメリカにいる、という話。その産まれた子どもはいま7歳らしい。
話を聞いたときびっくりしてしまった!
そして過去にわたしとなおとでこんなことを軽い気持ちで話していた。
「2人同時に、隣で手を繋ぎながら出産できたらおもしろいよね」
(なおはおっぱいはとったけど、子宮は残したまま。生理もちゃんときている。なおの子宮は生きている。=しようと思えば出産できる!)
その吐いた受精卵を一体全体どうやって、体の中に入れるのか、わたしにはさっっっぱりわからないけれど、でもなんだかあの思いつき、現実になるかもじゃん!と思っているわたしがいる。
そんなことあったらちょーおもしろいじゃん!
それ、ちょーすてきじゃん!
ってな風に、ここらへんの話をするときのわたしはいつも、わくわくする。未知への好奇心、人間の可能性への好奇心、に心踊る自分がいる。
○受精卵吐く夢
○アメリカでの実例
○まぐ愛カレンダー
○うちらの妄想
それらが、パズルのピースがはまるかのように、何かを織り成しあっている。
人間とはこういうもん
科学的にはこうであるはず
そういったものを握りしめて
限界をつくってしまえば
その途端に可能性は0になるけど、
本来、人間の持つ可能性ってもっと計り知れないのだとおもう。
「人間」って枠を超えて、
「生物」って枠で見てみると
クマノミとかなんちゃらとかは
無性生殖できたりするし、メス同士で子供できたりする。
だから全然、いろんな可能性が、人間にはあると思ってる。笑
そんなことを密かにずーっと思ってるわたし、レターポット始めてみました。よろしくね💌
レターポット関連からの、
お金の話、give &take の話、所有の話、インドでの話、またブログに書きたいな。
おしまい。