Mi amas vin.

My life is my message

性のこと。

もっと自分だけ愛しちゃお。

『自分がかわいそうだよ』って実感を持って思った日。

そりゃあ、遠い目をするよ。

なんだか抜け殻になるよ。

土偶のような顔になるよ。

 

ここ最近、疲れてた。
なんだか逃げ出したくなってた。

【もっと、ありのままでいたい】そう強く望む自分がいた。

ずっと何かに囚われてた。
それは誰かや何かによるものではなくて、
自分が自分へ作り出してるもの。

 

なにも気にせず
なにも頑張らず
なにも溜め込まず
なにも抑えず
なにも責めず
なにも殺さず

 

生きてたい。そう思った。

ということは、わたしは、

 

なにかを気にして【どう思われるか】
なにかを頑張って【理想の自分であろうと】
なにかを溜め込んで【生まれる言葉】
なにかを抑えて【ストレートな感情】
なにかを責めて【自分】
なにかを殺して【ありのまま】

生きていた。


かわいそうすぎる!!!!!

 


もっとなーんも気にせず、
1番に自分を大事にしてあげよ。
1番に自分を愛してあげよ。

 


堂々と『これがわたしなんです』って
100%の自分で真っ向から向き合えば
それが誰にどうはねつけられても
「あらっ、そうですか♪」
って清々しく去れるから。


自分の大切な人に嫌われるよりも
わたしはわたしを大事にしたい。

 

やっと心から、実感を伴って、そう思えた。

 

誰かの言葉では何度も分かってた言葉。
でもそれは、自分が動く原動力にはなりにくいんだ。
本当に自分の中で実感を持って、なるほど!こうなんじゃん!と思った時に、ひとは初めて動くんだなあって。


自分でたくさん、自分を縛ってたなあーー。

 

 

 

【今日世界が終わるとしたら、今、自分はなにをするか】

その問いかけは、

 

ほんとうに自分が望むもの
ほんとうに自分が言いたいこと
ほんとうに自分がしたいこと
ほんとうは自分がしたくないこと

 

それに気付かせてくれる。


今この瞬間、わたしが選ぶものは、


〈なおとのやりとりで生まれた自分の中のことを文字に起こして、ここに残すこと。〉

 

だからまた、いろんな抵抗感が生まれてるけれど、それを無視して、書いてみようと思う。

 

 

 

 


ずーーーーっと、押し殺して、抑えて、言えなかった思い、言葉、それは


「もっと深いところで触れ合いたい」
「わたしの体を愛して欲しい」
「大事に扱われてると感じたい」
「まぐ愛をしたい」

 

でもそんなの言えなかった。

 

なおは、それを、必要としていないことをわかってたから。

 

なおが持つ、


性的なことへのブロック、
せっくすがなおにとって
いい感じのものに思えないこと、
性的なことをする自分への責める気持ち、
女性器への嫌悪感、

 


それらもろもろが、
わたしとなおとの間に「ギャップ」を生んでいた。

 


わたしはなおとまぐ愛がしたいけれど、
なおはそれを必要としていなくて、
ハグやキスで充分と思ってる。


その状況が辛かった。


「自分ばっかり」
「一方通行だ」
「惨めだな」
「みすぼらしいな」

とさえ、思うときもあった。

 

でもさ、

好きな人がいて
その人と一緒にいたいなとか
その人に触れてたいなとか
自分の体を大事に扱われたいなとか

もっとストレートに言えば

まぐ愛の中でその人の愛を受け取りたいな、感じたいな、想いのやりとりをしたいなあ

ってすんごく、自然ですてきな想いじゃん?


そんな想いで、交わされる性的なことは、すんごくすてきじゃん?

好きな人の手によって感じれること、それを味わえること、すごく幸せなことじゃん?


自分が勝手に、
自分に対して

性的なやりとりをしたいと思うことを

偏見的な目で、よこしまな目で見て
責めてた。

 


なーにしてんだって思うけど、
それが事実、それがわたし。
そんな自分にすら、OKを出していこう。


三大欲求と言われる「性欲」
わたしにとっての、その言葉の本質は
【人とつながりたい欲求】なんだと思う。

 


その欲求はなおも持ってる。2人とも同じものを持っている。

 

でもそこでなおは、
人とつながりたい欲求が性欲という存在によって、邪魔されてしまう、壊されてしまう、と感じている。

 

わたしは、
人とつながりたい欲求というものが、性的なやりとりによって、深いところで満たされると、感じている。
自分にはその実感があるから。確かな実感を持ってるから。

 

なおとのまぐ愛の時間に
生まれて初めて感じた感覚、
自分の体に起きたこと、
それが自分の中の確信になってる。

 

 

人間ってすごいんだなあ!

 


こんなやりとりができるんだなあ!

 


せっくすって、まぐ愛って、なんだかすごい世界なんだなあ!

 

そんな風に目を輝かせる「わたし」が、確かにいるんだよね。

 

そんなわたしを大切にしたい。
そのわくわくを、感動を、好奇心を、大事にしたい。

 

 

でもなおには、持ってるブロックによって、遮るものが多すぎて、邪魔するものが多すぎてその実感はないみたい。

 

2人でまぐ愛してても、その人が何を持ってるか、何を感じてるか、どんな内側でいて、どんな世界を見てるかは、全然違うんだねえ。

 

なんだか少し寂しいね。


でも、まぐ愛すらも、せっくすすらも、
見たい世界は選べるんだなあって。

 

ほんとうは2人同じ世界を見ながら
できたら、そりゃあいいけどね。

 

うちらはまだまだ、これからみたい。

 


なおの中の女性器への嫌悪感が、解放されない限りは、純粋な想いで触れ合いたいとは思えないだろうし、
ほんとうの意味でわたしの女性器が、なおに愛されることもない。

 


いまは女性性解放の道を辿っていて
どんどん女性らしさを感じる瞬間が増えているインドの日々だけれど、
おっぱいだけは、もう戻ってこないでほしいってなおは言ってる。

 

ずっと潰れてほしくて本気で自分で殴ってきたおっぱいを29歳で切り落として、もう2度と戻ってきてほしくなくて、
唯一残ってる女性器も嫌悪感が消えなくて。


ほんとうに、ほんとうになおは、
「女性性」と言うものを嫌って、嫌って、生きてきたんだなあって。今も。


わたしは
男性とお付き合いしてきた身で
異性愛者だと思ってて

そういう認識を持ったまま、
なおを好きになった。

 

好きになった頃のなおは「おっさん」だった。(最近、ほんとうになおの見た目の変化が目まぐるしくて、ピースボート時代のなおが、坊主で、太ってて、ゴツくて、顔も違うしで、ほんとうにおっさんだったね、と、わたしとティンクルで話している)

おっさん時代f:id:mayu76:20180328024924j:image

いまf:id:mayu76:20180328025016j:image

 


でも、そんなおっさん時代のなおの時から
わたしはなおの女性器には何の抵抗もなかった。


愛したいな

と思ってた。

 

それがなおのもつ一部。
それをありのままに受け入れて愛したいと思ってた。

 

そこに、普段わたしが持ち出す、男だの女だのなんだのといった性への固定観念は1ミリもなかった。

 

 

なおは女性器を人に見られることを異様に嫌がってて、頑なに鍵をしめて、見られまいと、明け渡すまいと、逃げまわっていたけれど、導きにより今は、すべてをわたしに委ねさせてくれている。


でも、わたし、男性としかせっくすしたことなかったから、なおの膣に指入れても、どう動かしたらいいのか、まっっったく分からないんですけどね。。。
されるのと、するのと、では全然違う。
勉強しろって話なのかもだけど、なんだかそれは変な気がするから、しない。気が乗らない。

 

そもそも感じさせることとか、いかせることが、わたしの目的ではないから。それは必要ない。

 

でもなおが、感じてるところを見るのは好き。
まだまだ、ブロックが強いから、感じてることを我慢しようとしてしまったり、「どうしたらいいかわからない」ってなる、なおだけど、

 

 

もっと肩の力を抜いて
しぜーーんに、そのままーーに、
わたしとの触れ合いを感じてほしいなあって、気持ちよく感じてほしいなあって、そう思う。

 

 

女性器によって感じてるその姿
ってのは、

伸びた髪よりも、
柔らかくなった顔よりも、
すらっとしてきた足よりも、
くしゃって笑うかわいい表情よりも
でてきた、くびれよりも
自然な女性の骨格よりも
白くてつるつるな肌よりも


なによりも『女性らしい』なおの姿なはずなのに、
それはいとも簡単に受け入れられてるわたし。

 


あーきっと、
なおの見た目の変化によって、
ちーーんってなったり、
落ち込んだりしてるのは

【周りにどう見られるか、どう思われるか】
それでしかないんだなあって。


なおが、どう見られるか。
そのなおといるわたしが、どう見られるか。

それはもういらないよね。ポイッてしちゃおう。

 

ほんとうは、大丈夫。

大丈夫なんだ。

 

一歩引いて見れたら、すんごくおもしろいよ、わたし。なお。そして、わたしたち。


女で生まれて、

男を目指して、

一時期はおっさんになって、

でもまた、きた道を戻って、

女らしくなりつつある今。

そんなことある!?1回の人生でだよ。


そして、

おっさん時代のなおと出会って関係が始まって、でもおっさん(おとこ)だったはずのパートナーが、
いまだんだん女らしくなってて、
あーほんとに生まれた時は女だったんだなあと今更ながら実感したり、
その変化に困惑したり、ショック受けたり、
いろんな偏見、固定観念に気付かされたり、気持ちが変わるかもと騒いでみたり、
めちゃくちゃジタバタしているわたし。

実に、おもしろい。

これがしたいんだと思う。

 

ジタバタ苦しんでもがいてたいんだと思う。


だって、こんな目、なかなか遭えないもん。


わたしは、この設定を自らして、生まれ落ちた。

 

この先に、どんな物語が待っているのか、予想できなさすぎて、未知すぎて、たのしみすぎるもん、自分の人生。

 

わたしの知らない無我の自分、なかなか、いいセンスしてるな、なんて思ったり。


そしてそんな、わたしたちの関係性の色かたちは目まぐるしく変化している。

この先、一体わたしたちがどんな関係性になっているのかは、わたしにも、なおにも、1ミリも想像がついていない。

 


いまは、
ずーーーっともやが、かかっていたわたしの内側がすーーっと晴れてった感覚。

 

あれだけ避けてきた「決める」ということを自然としたのだと思う。

 

そしてこれから、たくさんの、これまでのわたしが避けてきた状況が目の前に現れる。
そこで1つ1つ、要らないものとさよならしてこ。

 

 

すべての状況に、
すべての自分に、
OKをだして、赦してこ。

 


まんまの、自分を出していこ。
自分を1番大切に。

それがなにより、自分を愛することだから。

わたしのやりたいことだから。


もう少しで、インド3人のホームページができる予定なんだけど、そのキーワードは
sex
forgive
love

 

いよいよこのキーワードが、自分の中で、2人の中で、本格化していくのかもだなーと。

 

まぐ愛
赦し

 

おわり。

 

《見た目の変化》によって生まれる思考。

インドに来て1ヶ月半。

なおが男性ホルモンの注射を辞めてから半年。

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順調になおの容姿がグレーになっている。

シータルの友達たちも、

「この人男なの?女なの?」

という質問をたくさんしていたそう。

 

シータルには、なおの性のこと、体のこと、すべて話した。(これがまたいい語りの時間だった)

 

シータルはなおの性のことを知っても

あっけらかんと、

なんでもおっけーよ

No problem 👍

と言う。すてきだ。

 

なおの声は低い。おっぱいもない。

 

それでも、ここインドでは、

「みな疑問に思うんだなあ」って。

それがすごく興味深かった。

 

何をもってひとは「おんな」と判断し

何をもってひとは「おとこ」と判断するのか。

 

 

 

そして、なおの近くにいる中でも

ふとしたときに見せる表情が

「きれいだな」と思うことが出てきた。

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それは男としてきれいと思ってるのか

女としてきれいと思っているのか、

もうわからない。

 

ただの、いち桑原直 という人間を

きれいだなと思う。(のだと思う)

 

でも性の固定観念が強いわたしは

どこか、なおの存在が自分の中で、

おとこゾーンから

おんなゾーンへと

グレーなところにきていたのかもしれない。

 

↓こっからはぜーんぶいらない《思考》。

それをわかった上でここに残す。

 

ここ最近頭にあった【何かに対しての諦め】

 

それは主に3つ。

 

①自分の持っていた理想のパートナー像

こんないい感じの(やや男女)のパートナーに見られたい。

 

いよいよ周りから、

すーっと、スムーズに

「男」に見られなくなってきたなお。

 

自分のなおとの間に抱く、利己的な期待や願望を諦めるという最中にまさに今いる気がした。

 

 

②なおに女性として魅力的に見られること

 

そのさっき言った、なおがきれいに見える瞬間、その瞬間は正直、負けた感覚がある。なおはわたしよりも濁りがなく、透き通っていて、人としてのきれいさや美しさがあると感じている。そこはもう届かない、敵わない、という感覚がある。

 

そのせいか、

『なおにきれいに見られたい』

そう思う気持ちや、身なりに気を使う度が

関係が始まって以来、いまが1番少ない。

 

 

③なおと性的な触れ合いをすること

 

①と②があってなのか、

なんだか今はなおと性的な触れ合いをすることが全くイメージつかない。それをしたいとも思わない。それはお互いに。

 

うちらはそういう性的なやりとりがなくても、十分人としていい関係でいれる、という感覚を持っている。

 

以上3つ。

そんな諦めを頭のどこかに持っていたわたしはなおから見て、死んだ顔に見えたそう。土偶のようだと言われた。

 

この3つはぜーーんぶ思考。

 

 

 

思考という、どす重たいトンネルの中

光を見れずにいたわたし。

 

そのトンネル自分で作ってるよ。

 

わざわざ、自分の生む思考に埋没しにいってる。

 

それはヴィパッサナーをもって《観察》するだけでいい。

 

 

生まれる感情や思考に浸って

それを言葉にすること、

それはよく自分がしてきて、きっと得意としていること。

 

だから、よーく意識していないと危ない危ない。

 

 

なおが女性らしくなることで

ほんとうに

もうわかんなーい!

好きじゃないかもー!

とか、思ってたら、

いま、一緒にはいないだろうから。

 

 

そして、人の見た目っていう外側の変化だけで、気持ちが揺らぐということ、

外側だけを見て、その人の変わることのない内側の本質を見つめれないこと、

それはほんとうに酷いことだなあって。

 

そんな言葉の矢をなおに刺すということは
同時にわたしがわたし自身に矢を刺してる。

 

でもその一方でこんなにもリアルに見た目が変わっていくことによって、自分の中にいろんなものが生まれるんだなあって。それはそれで面白い。

 

対「おとこ」だったら絶対に生まれない

対抗心とか。

 

 もう、なおを「おとこ」か「おんな」か、どうに見てるかよくわからないけれど、

 

なんにせよ、

生まれる抵抗感、嫌悪感、

様々な感情、思考すべてを観察して、

《目に見えない本質》をたいせつにしたい。

 

2人が惹かれあったわけは、そこ《目に見えない本質》にあると思うから。

 

 

【お互いに心地よくて、

心の深いところでつながれる関係】

 

それがわたしにとっての、なおとの関係での望み。

 

そのために、自分の中をpeaceful に。

 

といいつつも、ぜんぜん喧嘩はするし、うまくいかないコミュニケーションばかりするわたしたち。。その何かはどう変化していくのか。

 

 

 

 

思わぬ落とし穴。

ヴィパッサナーでわたしが奉仕者をしたときに、生徒として参加していたシータル。

コース中は聖なる沈黙が守られ、基本的には会話ができない。

そんな中、ある日の夜突然シータルが「あなたにいくつか質問したいことがある。コースが終わったらわたしに会って」とわたしに話しかけてきた。

 

そしてコースが終わってから、質問はなんだったのか聞いてみると、(○:シータル、 *:わたし)

 

○あなたはインドの伝統的な文化知ってる?

*や、全然知ってないと思う。

 

○インドでは結婚したら女性は必ず旦那さんの家に行かなきゃならない。そして旦那さん以外の人と会ったり遊んだりすることができない。日本でもそうなの?

*いや、日本では結婚したとしても、女性が男の人の家に行くことは絶対ではない。むしろ、今はいろんなカタチが増えてるし、別居しながらいい関係だったりするし、それはその人たち次第。選択肢がある。旦那さん以外のひとと関わっちゃいけないとかもない。

(シータルは興味深そうな反応と表情をしていた)

 

○インドでは結婚したら子供を産んで、死ぬまで家の仕事をして終わる。わたしはそんな人生はいやだ。だからわたしは結婚をしたくない。

 

 

そんな会話をした。

 

シータルは、1人で生きていく際の重要なアイテムになると思ってヴィパッサナーの参加を決めたとのことだった。

 

『わたしは全ての現実を受け入れると決めた。自分にどんな不幸なことがあっても、他の人にどんな幸福があっても、嘆いたりしない。』と。

1人で生きると決め、すべての現実を受け入れると、そう力強く語るシータルの姿は、すごくかっこよかった。

 

去年、フィリピンで出会ったひとりの女性は、

泣きながら私にこう言ったことがある。

 

「わたしはこれがしたいと思ってもできない。どうすることもできない。日本に生まれたあなたは本当にラッキーなのよ。もし選べるのであればわたしも日本に生まれたかった。いまの現実はもうどうしようもない。」

と。絶望感を抱えていた。その人の目から流れる涙はわたしの心をきゅーっと、締め付けた。

 

この、ただ生まれ落ちた国が違うというだけで、自動的に生まれる違い、格差。

 

そんなのは違うと

そんなことを思っても意味がないと

わかっていながらも感じてしまった

「日本人に生まれ落ちたことの申し訳なさ」

 

今はもう、日本人「だからこそ」

やれることがあると思えているけれど、

 

シータルのように、

生まれた国、親、環境、すべての現実を受け入れて絶望や悲観することなく、覚悟を決めて生きること、それってそうそう出来ることじゃないなあと感じた。

 

 

インドではカーストがまだ残っていて、

輪廻転生も信じられているらしい。

 

低いカーストに生まれたものは、

その身分相応に、外れたことをせずに生きていくようにと教えられる。その今いるカーストで、堅実に生きることができたなら、次生まれ変わったときに、今より上のカーストに生まれ落ちることができる、と。

 

 

シータルは村の出身でありながら、親の協力のもと、大学院まで通っている。英語を教える仕事をしたいと思っていて、今は大学院で英語を学びながら、病院で働いている。

 

インド人女性はみな髪を伸ばす中、

シータルはショートカットにしている。

 

インドのなかではノースリーブはあまり良くないとされているなか、ノースリーブが大好きなんだと言い、ノースリーブを着ている。

 

親は、宗教に属しているが、

強制はされなかったため、シータルはなんの宗教にも入っていない。

 

親はノンベジで肉などを食べるが、

シータルはベジタリアン

 

きっと、この今のインドにおいて、シータルの1つ1つの選択は、すごく勇気のいる選択なんだと思った。

 

世の中で当たり前とされてること、

一般的、大多数の人が歩むレール

そこから外れて、自分の軸を信じて生きると決めること。

 

きっと、わたしが大学を辞めた時と同じ勇気をシータルは出したんだなと。

 

ここ、インドに来て予想外な落とし穴があった。

それは人々がみな、学歴だとか職業だとか、親のやってる仕事だとか、そういうものにすごく意識のフォーカスがいっている、ということ。

 

わたしが日本で手放した『学歴』

それがここインドではめちゃめちゃ重要視されてる。

 

『educated 』かどうか、その物差しがすごく強い。

 

些細な挨拶から始まる会話で必ず聞かれる。

学生なのか働いてるのか。

なんの勉強しているのか、なんの仕事をしているのか。

親は何の仕事をしているのか。

 

「君はなんのプロフェッショナルだ?」

そんな聞かれ方もよくする。

 

わたしにはなんのプロフェッショナルもない。

社会に出て働いたこともない。

わざわざ入った大学も辞めて学歴もない。

 

そんなわたしは

脱いでいくんだと決めたインドで

逆にどんどん着ていってしまった。

 

会話のスムーズさや

インド人の反応などを気にしたわたしは

最初はめんどくさくて

Student だと嘘をついたりもしていた。

 

でもやっぱり、そんなんじゃ、

《純粋な対ひと》とのやりとりはできないんだよね。

 

それに気づいてからは、

大学を辞めたんだと伝えるようにした。

なぜ?と聞かれる。Boring だったからだと答える。

 

ほんとうは、

世界を旅して、様々なひとと出会って

自分の価値観が揺らぎ、

「ほんとうの自分」に気付いて

これまでとは違う道を勇気を出して選んだ

 

っていう、そこにわたしの真ん中があるのに、それを言葉を尽くして目の前の人に説明をしようとしない自分。

 

いまのインドの人たちには理解されないんじゃないか、とか

そんなことを説明できる英語力はわたしにはない、だとか

あーだこーだ、自分の頭の中に言い訳を作ってた。

 

そしてもう1つ、

まだちょー根っこでは、

許しきれていない、認めきれていない自分がいる。

 

大学を辞めたということに。

 

そして両親の仕事を聞かれるときもどこか抵抗感というか嫌悪感が生まれる。

 

わたしの父は高卒で、自営業の水回りの会社。

お母さんは中卒で今はバスの運転手。

 

わたしの両親は『educated』ではない。

そんな偏見を自分の中に自分で持ってる。

 

自分のことも親のことも

心の底の底の底から、許して認めていたなら、

誰の前でも堂々と、ほんとうのことを、話せるはず。

 

そんなことに気付いた。

 

怖がらないで、自分のありのままを出していこうよ。

怖がらないで、正直に自分を出していこうよ。

 

そう思った。

 

思わぬインドの落とし穴に、

裸にならず、嘘をつき、

傷つかないための鎧を着て過ごした時間。

それは窮屈で冷たい世界をわたしにみせる。

 

それはわたしのやりたいことではない。

真逆のことをしてしまっていた。

 

もうこれからはちゃんと、

正直に、ありのままに、人と関わりたい。

 

その結果

誰にどんな反応をされようと、

どんな言葉をもらおうと、

 

自分の中に濁りを生むことの方がよっぽど怖いことなんだ。なにかが蝕まれる。なにかで自分の真ん中が覆われていってしまう。

 

そんなことに気付いた。

 

 

そして予期せぬ流れで、このシータルの村へ私たちが行くことになった。

 

ヴィパッサナー1ヶ月が終わったあと、

Igatpuri から電車でArangabad へ行こうとしたら、おじさんたちに「電車では無理だ。バスでNashik まで行ってそっからArangabad へ行け」と言われ、当初予定していなかったNashik という街へ行くことになった。

 

『あれ、そういえばシータルの家、Nashik って言ってたよなあ。うちに泊まらせてもらえるか聞いてみよう』

そう思って連絡をしてみたのがすべての始まりだった。

 

とんとんと話が進み、すべてのことが気持ちいいくらいうまくいき、わたしたちは本当にシータルの村に来れた。

 

この村では初めての外国人、初めての日本人らしく、村では終始、注目の的だった。

 

この村ではみーーーんな家族のようで、

すごくあたたかく、すてきな村だった。

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やっぱりどこの国でも家庭料理が1番だ。

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シータル、ありがとう。出会えてよかった。

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シータルの村での写真を載せて終わりにする。

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ピースボートが変えた『わたし』

なんだかふと思ったこと。

 

見たい世界は確かに自分で選べる。
何を受け取って、
それをどう捉えて、
どんな世の中を見て生きるかは
その人の内側が決めるのだとは思う。

 

でも、わたしがここ最近
あまり視野に入れずにいた、ワールドワイドな問題。

 

世界の環境汚染だとか貧困だとか、
日本でも自殺者だとか重労働だとか。

 

 

確かに見たい世界は選べるよ。


でも、今、この瞬間に、確かに苦しんでる人たちはいる。


今、この瞬間に、確かに多くの自然が、人間によって破壊してる。

 

 

「みーんな役割を持ってこの世に生まれて来てて、すべては必要だから、そうなってる。」

 

いつからかそう思うようになり、どこか自分の中での


「見過ごせない気持ち」
「どうにかしたい気持ち」


が緩まっていた。

 

 

でもやっぱりわたしは
見過ごせないみたい。

 

 流れる涙が

何かわたしの中にある使命感を教えてくれる。

 

それらの問題を目の前にする度に
なにかがいつも生まれる。
心の中に。(自分は共感性が高いからってのもあるけれど。)

 

 

知らない方が幸せなことって、
本当にたくさんあるんだと思う。

それでも「知る」ということが大切なんだと思う。

 

 


ピースボートに乗り、南半球を一周して、いろんなものを見てきた。いろんなことを感じてきた。

 

船の中で、ずっと苦しかった。

 

【どうにかしたい】そう思って高校生の頃から国際協力に没頭して、大学に入ったけど、

 

その、【どうにかしたい世界】を作り上げてるのは、自分たち先進国なんだ、って。

 

わたし自身が、加担していたんだ
って。

 

 

なにが国際協力だよ、
なにが貧困、格差をなくしたいだよ

 

そう自分に思った。

 

ぜーんぶ根っこには先進国の存在があって、
日本に生まれ落ちた自分にも
そのシステムに加担した暮らしが
そこら中に散りばめられていること、
気付いた。

 

 

肉食でどれだけの環境が破壊されてるのかを知り、


安価な服がどれだけ途上国の人たちの重労働の上に成り立っていたのかを知り、


石油とかのエネルギーだとか、どれだけ遠いところから日本に来て、環境を壊し、どれだけ日本はそれに頼りきってるのか。


スーパーに当たり前のように並ぶ、
世界中そこらから日本に来る食料だとか、
それを作り、育ててる人たちが様々な危険に晒されてること、学校に通えない子どもがいること、


資本主義を追い求めるあまり、経済優先するあまり、一体どれだけの《本当は必要ないもの》が生産され、商品として並び、それを消費者が買わされてきていることか。

 

 

本当は自然の中にあるものを
本当は人の手で生み出せるものを。

 

 

若杉ばあちゃんも言っていた。
【「つくる」ということを人間は企業にやめさせられた。「買わされている」ということに気付かなければならない】と。

 

 

いまは洗濯マグちゃん(?)をきっかけに話題を呼んでいる。洗剤メーカーはわかっていたはずだと。でも経済を優先したんだと。

そういった商品、そっこら中にたくさんあるのだと思う。

 

 

まずは先進国から意識変えなきゃじゃん。
まずは日本じゃん。
まずは自分じゃん。


そう思ったわたしは目を外側ではなく、内側に向けた。


動物性のものを使わない「食」
マクロビに興味を持ち、空音遊へ丁稚研修に1ヶ月行ったり、自分で調べて作ってみたり、

 

大きな電力会社や
石油、ガスに頼らずに
自然の恵みと調和して生きていきたい
と思うようになり、
北海道のニセコにある自給自足研究所へ
お世話になったりした。

 

その、ピースボート降りてから
わたしが足を運ぶ先々には
ほんっっっっとうにすてきな人たちがいて、
ほんっっっっとうにすてきな暮らしが存在してた。

 

 

みんなそれぞれのギフト(才能)を最大限に発揮して、それらのギフトを交換っこしてる。野菜を育ててる人は野菜を、ケーキを作る人はケーキを、染め物をする人は染め物を、なにか手仕事するひとは手づくりのものを。そういった物々交換によってギフト経済が成り立ってる。物じゃないギフトもたくさんある。それは経験だったり、ことばだったり。(この、ことばってのはキングコング西野さんのレターポットがそれにあたるのだと思う)

 

 

そして
本当の平和は、自己の平和から。

 

そう思って自分の内側とも向き合い出した。

 

いくら平和を叫んだって
いくら平和を求めたって
その人の心の中のエネルギーが
マイナスなのであれば、
それはマイナスのエネルギーを撒き散らしてる。

 


この世に生きる人間みんなが
自分で自分の中を平和にできたなら
憎しみや戦争は生まれないのだと思う。

 

 

【何か】がなきゃ幸せになれない


なんて、とても不健康で、欲望という名の電車についつい人は乗ってしまう。
それはお金だったり、自分の欲しいものだったり、恋人だったり、結婚相手だったり、なんでも。自尊心を満たすため、承認欲求を満たすため。

 


自分で自分の中を平和にして、
自分で自分の価値を信じて
自分で自分を愛して
自分で自分を満たすこと。

 

今ここの感謝に気づき、幸せを感じる心を養うこと。


それがすごく大切なことなんだとおもう。

 

全くおんなじ状況にいても
はっぴー!って人と
もう嫌だ、、ってなる人といる。

 

 

結局、幸せは【なる】ものではなくて【感じる】もの。

 


ヴィパッサナー瞑想は自分で自分の中を平和にする手段そのもの。まさにってもの。強力アイテム。

自己探求の道でもある。ひたすら自分と向き合う。

 

ピースボート乗る前には外側に向いていた矢印が、
ピースボート降りてからは一気に内側に向き出した。

 

 

それはある人から見れば、
自己中心とか、利己的とか、そう映るかもしれない。

 

 

でもわたしにとっては、
その道が、何よりも近い、
世界のため、誰かのためになる道だって思ってる。

 

 

自分で自分を平和にして
経済システムから外れて
自然の恵みの中、
人と人とのギフトの中に生きること。

 

 

それが
先進国に生きる自分たちにとって
何よりの《国際協力》になるのだと、いまのわたしは思ってる。

 

 

実際の途上国の現地に行きたい!そこで現地の人の抱える問題を共にアプローチしていきたい!

そんな思いに熱くなってた高校生時代〜ピースボート乗るまでのわたし。


「現地で」という思いが再び強く湧き上がっているわけではないけれど、

 

やっぱりわたしは
この、自分がみてきた世界との《つながり》を常に感じながら、常に想いながら、生きていたいのだな、と。

 

【つながりを感じる】これは何においてもキーワード。


自分さえ途上国の人が苦しむ暮らしをしないではっぴーに生きれたらそれでおっけー👌とはならないみたい。

 

『You are lucky 』


これ、どこ行っても言われるんだよね。

カンボジアでも言われた。
フィリピンでも泣きながらわたしにそう言う女性がいた。
ピースボートでも、何度言われたことか。
いまいるインドでも、もう何回も言われてる。

本当に本当に、たくさんの人にこの言葉をもらう。

今の自分が、いまこう在れてること
それは超絶ラッキーで、当たり前なんかじゃなくて、そう思うと感謝と感動で、心が溢れてくる。

 

確かにお金ない家庭で、わたしもそんなバイトしてないのになぜかやたら海外行けちゃってるし、
まず日本に生まれ落ちて、生きたいと思う国はほぼ行けることもそうだし、
出会ってきた人、もらった恩を思えばラッキーな人間でしかないし、

ヒッチハイクいつもいい思い出だし、
なんだかんだ、いろんな場面でラッキーな思いたくさんしてきたなあ、って。

 

 

そんなラッキーガールにはこの後の人生一体どんな役割が待っているのだろうか、と思うとわくわくする!笑

 

と、そんなことを思った満月の夜でした。

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2度目のヴィパッサナー瞑想 in インド

 

まずは。

さすがインドだった。瞑想中、日本だったらシーーーーーンとした空間。こっちではみな、ゲップもオナラもあくびも、すべてが盛大だった。

 

日本では、静かすぎて、息を飲むのも鼻をかむのも咳をするのも、緊張が生まれていたわたしにとっては、インドという空間での瞑想はとても気が楽でいれた。

 

そしてインド人、

この瞑想中に、構わず周りを気にしない感じ、

食事で並ぶ時に平気で割り込みする感じ、

周りのこと考えずに自分のペースを守りきるスタンス、

 

ああ、わたしは、このインド人たちを許せたとき、もっと生きるのが楽になるのだろうなあと思えた。

 

 

そして10日間コースは

わたしにとって、ほんとうに大切な時間となった。

内容は普段ケータイのメモに書き留めてる

内面日記をそのまま貼っつける。激長だけれど。

 

その前に簡単にヴィパッサナー説明してみると、

 

ヴィパッサナー瞑想は宗教でも宗派でもなんでもない。とても科学的で理にかなっている。

宇宙の真理というものを教えてくれる。

 

瞑想中はひたすら、体に生まれている《感覚》を《客観的に観察》する。どんな感覚が生まれていても《平静さ》を保つ。そして、どんな痛みもどんな苦しみも一生続くものなどなくて、すべてのものは生まれては滅びる、という《生成と消滅という真理》を自分の体の枠組みの中で理解していく、というもの。

 

旅人がヴィパッサナーに辿り着くことが多く、日本ではコースで出会った人みな、枠から外れたおもしろい人、旅人ばかりだった。大学を辞めた人率もめちゃめちゃ高かった。

 

以下メモ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

【2月17日】

インドでのヴィパッサナー瞑想10日間コースが終わった。

何から文字に起こせばいいか。

まずは、とても大切な時間になった。

ようやく、いち小林茉優としての、
進む方向というか、

どう在りたいのか、
わたしにとっての「自分の足で立つ」ということ、

それが、何の外側からの言葉で張り付けられずに、
100%自分の中から、純粋に、湧き上がってきた。

 

これまでの自分は、
なおの中から生まれてる言葉と
自分の中とを混同していたと思う。
そのことに気がつくことができた。

距離が近ければ近いほど、
大切な存在であればあるほど、
混同しやすくなるのだと思う。

 

より近い関係になりたい
より末永く一緒に居られるよう
価値観や考え方を相手と合わせたい。

そんな思いがあった。

 

それを認めたその上で
でもそうではなく、
わたしの中で純粋に気付いたこと。
それは、

 

《自分の中に生まれる怒りや憎しみ、情欲、悲しみ、惨めさ、それを他の人に投げつけないこと。周りからも受け取らないこと。そしてやすらぎの中で、溢れる愛の中に生きる》

ということ。


それがわたしの中での、「自分の足で立つ」ということだと。

 

 

そして、
360℃周りに愛と感謝を持って、今この瞬間の奇跡を感じながら生きていたい。

それがわたしの在りたい、在りかた。

 

そこに横のつながり(今でいえばなおにあたる)が、あったらそりゃあすごくいいけど、まずの前提は360℃なんだなって。

そう、思った。

 

 

そして、

ここまでの言葉で使ってる「愛」というものは、いまわたしの中にある《利己的な愛》の先にあるのだということ。

 

人間とは利己的な生きもの。
「あなたを愛しています」という対象に対しては、自分の中での期待や願望がこもっている。だから、決してその人を愛しているのではなく、ひとは自分だけを愛している。

 

(だからある意味、家族の期待や願望を裏切って、自分1人覚悟を持って大学を辞めるという選択をしたことは、わたしと家族とを《本当の愛のステージ》に立たせてくれたのだと気づいた。)

 

そのような内容を講話で聞き、まさに、自分だ、と思った。

 


わたしがなおに対して持っている「愛」
それは利己的な愛にすぎなくて
わたしはわたしを愛しているだけなんだと。

まずはそれを認めることからなんだ。


「こんなゆるやかで心地のいい関係でいたいなあ」
「こんな食卓を2人で囲んでその幸せの中に生きてたい」
「自分がこれまで見てきた[すてきでいい感じの夫婦像]に自分もなりたいなあ」(2人とも戸籍は女だから、法的には結婚できなくても、周りから見られたときに、夫婦、みたいな、そんなパートナーでいたいっていう、強い思いがある。ここはすごく重要な、握りしめてる何か。)

 

 

そんな期待を、
そんな願望を、
わたしはなおに対して持ってる。

だからそばに居たくて
だから「愛してる」と言うのだと、
それを、そのことを、利己的な愛を、
自分の内に認めること。


そして、瞑想中に、ふと、いきなり出てきた
思いつきというか、イメージがあって、それは、

なおが、
いまあるものを剥いで、剥いでったら、
なおの在りかた、姿というのは
結果として【女性】に分類されるところに行き着く、というもの。

これがふと、自分の中に降りてきた。

 

でもそれっていうのは
利己的な愛を持つわたしが《望まないもの》

だってそこには、
わたしの期待する、願望するイメージはないから。
一気に別物になってしまう感覚が、いまのわたしには、ある。

 

それをイメージするときはいつも
何とも言葉にできない感覚が体を支配する。

複雑。と一言で言えば簡単だけど。

わたしはこれまで男性と付き合ってきて
分類されるならヘテロ
そして、同時に【レズビアンと思われたくない】そんなものも握りしめてる自分がいる。

(これはなおも同じだった。2人して「レズビアンに思われたくない」という同じものを握りしめてて共にいること、ほんっとうに、おもしろい。)

 

 

桑原直(子)という、
女性として生まれ
トランスジェンダー の診断を受け
おっぱいを取り
名前の(子)をとり
男性ホルモンを打ち
ヒゲやすね毛は生えてて
頭は坊主で


でもヴィパッサナーを機に、男性性への渇望と女性性への嫌悪から生まれる苦しみから解放され、ニュートラルで心地いいところを目指す。そのために
【自分の中に確かに存在する女性性を嫌悪せずに受け入れていこう】という流れになり、

ホルモン注射を辞め、
生理が始まり
筋肉が落ち
毛も薄くなっていってる
髪も伸びてる
そして何より顔が変わった。まとう雰囲気も変わった。より柔らかく女性的になってる。

いまのところ社会的な分類は男性の中にいるけれど、
ひげとすね毛剃れば女性でもいけるかもしれない

 

という、超絶グレーな人間と
付き合っていながらにして、
そんな超固定的な概念も握りしめてるなんともな矛盾。

そんな矛盾を受け入れよう。

 

そしてこっからが大事で、

そんな余計なものをとっぱらうにも、
利己的な愛を卒業するにも、
なおが、女性に近付くことってのは
まさにどんぴしゃで、もってこいで、1番の方法なんだということ。

 


【なおが女性らしくなっていく道=わたしの中での本当の「愛」の始まりとなる】んだということ。

 

 

それに、気付いてしまった。

そうなったとき、いまのわたしとなおとの関係性の色・カタチは、また変わってくるのだろう。

 

それに気付いた瞬間、
頭は猛烈に抵抗した。
それは外側の自分が、望むものではないから。

 

でも、気付いてしまったんだよね。
そう、わかってしまったんだよね。

 

わたしがなおに対して抱く
こう在りたい
こんな人生を2人で歩みたい
そういった期待願望を、手放すときは、近いのかもしれない。

 

そして、結果として女性に分類される、
そのなおの姿を、目の前にするときも
そのうち来るだろう。

 

そのとき、わたしは
レズビアンに思われたくない】という
余計な概念に縛られずにいれるのか、
なおと、
自分の在りたいように在れるのか、
自分の接したいように接せるのか。

それを見る日が来るのだろう。


ヴィパッサナーが終わり
10日間なおと離れていた。
そして今日10日ぶりに顔を合わせたとき
他人行儀に、よそよそしくなる、自分がいた。
それは前の日本でのヴィパッサナーでもそうだったのだけど、また今回も、
このなおと、触れ合ったり、ハグしたり、キスしたりすること、その感覚がどこかへ飛んでっちゃったような自分がいた。

あれ、わたしこの人と、恋愛的なことしてたんだよね?って。(この「恋愛的」って言葉から自分の固定観念に気付いたいま。)

どこかなおとの心の距離は遠いような。
この感覚は今後どうに変化していくのか。

明日から数日ステイする。
もう一度自分の奥深くと繋がろう。

 

あ、もう一つ、コース中にあった大きな確信。
それは、この10dayコースを機に、
【反対方向に車輪を回し始めるときなんだ】ということ。

 

これまでは《感情のままに生きる》ということをモットーに、自分の中に強い感情が生まれたときそれを我慢せずに生きてきた。

 

喜びなどのプラスの感情はもちろんのこと、
マイナスの感情も大切にしたくて、

怒りが生まれたときはそれをそのままぶつけて
悲しくて泣きたいときは涙が枯れるまで思いっきり泣いて、
悲しいときは悲しみを味わいつくす。

 

それが、人間らしくて、いいと思ってきた。
感情に対して《我慢》をしたくない、と思っていた。

 

感情的な自分を、どこか、それでこそ私だ、と自分を立たせていたわたしがいた。

 

でも、ヴィパッサナーの世界に入り、宇宙の法を知っていくと、
否定的な感情は、外に吐き出すと消化されたように見えて実はより潜在意識に刷り込まれていき、どんどん心の深くに溜まっていく。
そして心の汚濁に溢れていくのだと気付かされた。

 

これまで渇望の多くを恋愛に求めてきたわたしは、なおとの関わりにおいて本当に本当にたくさんの、サンカーラー(反応・反発)を生み出してきた。濁りを生んではそれをなおにぶつけてきた。怒りや憎しみや悲しさや惨めさをたくさんなおに投げつけて、たくさんなおを傷つけていた。


それは宇宙の法で、同時に自分にも返ってきてて、その濁りは心の奥深くへと刷り込まれてってた。固い岩に掘って掘って掘りまくってた。

 

 

でもこれからは、そんな心の濁りが生まれる度に、体の感覚を観察し、平静さを。すべてのものは生まれては消える。移り変わる現象にしか過ぎないということ、アニッチャを自分の体の枠組みの中で理解する、というヴィパッサナーをしていくんだ、と。

 

これまでとは、真逆のことをしていくんだと、それはすなわち、【ダンマの車輪を本来の正しい方向に、回し始めるのだ】と、そう確信した瞬間があった。

 


この10dayコース、自分の在り方の変化を感じれるからおもしろい。
瞑想の時の、自分の在りかたから、
講話で何が耳に残るのかから、
自分が前回の千葉での12月のコースから、
どう変化しているのか、気付かされることがいくつかあった。前回は性への渇望が凄まじかった。そのおかげか、今回は性はそこまで出てこなくて、食への渇望がすごかった。

 


コースごとに感じるものも、気付くことも、得るものも違う。それは当たり前なのだけど、おもしろい。

 

 

そしてこのインド。やっぱりすごい。
最後のメッターが終わり、すべてが終了したあと、パゴダに祈りを捧げた。
その行為の際、手を合わせ、涙を流すインド人がたくさんいた。
この感覚、ほんとうに神秘的で崇高だと感じた。

インド人の涙を見て、なぜか自分の目にも涙が浮かんだ。

この感覚を持って、またインドで10dayコースを受けたい、そう思った自分がいた。

神への敬意、
目に見えない存在への敬意、
そこに近いところに生きる人への敬意、

なんてすてきなんだろう、と感じた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

コースが終わり聖なる沈黙が解けて、なおとてぃんくると会話をして、いくらか時間が経ち、なおに対しての感覚とか、自分の中で変化してるものもあるけれど、これはこれで、このまま残しておくとする。

 

 

 

いま、まさに揺らぎの中にいる。

わたしも、なおも、てぃんくるも。3人とも。

 

これからどうに転がっていくのか。

残り9日間センターで過ごす時間、何が生まれ何が変化するのか、しっかり見つめていこうと思う。

 

 

3人でコースに参加し、

10日間終わった後の、インド人を交えてのみんなでの記念写真で、おしまい。

 

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まぐ愛。未知なる世界への招待。

 

 

ミニくわにキスをしながら、

 

ありがとう、

ごめんなさい、

ゆるしてください、

あいしています。

 

と心の中で唱えた。

 

そうしたら、なおの目からは涙が溢れていた。

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きっとこの、目には見えない、波動というのかエネルギーというのか、愛と呼ばれているのか、その【何か】はこんなにもリアルに届く。

 

 

人間の手には力があって、

だから「手当て」という言葉が存在してたり、

おにぎりの持つパワーがあると思うのだけど、

それは、人と人との間での

触れ合いや、スキンシップにおいても、

さらにいえば、せっくすにおいても、

力を発揮するというか、

むしろその、

 

自分にとっての[繋がりたい人]との、

エネルギー【想い】のやりとり、

 

それこそが本質なのだと思う。

 

そしてもっと言えば、

これは手からのみ、溢れるものではなくて

全身から出すことができるのだと思う。

 

せっくすって、ほんとは、そんなものなんじゃないかと思いだしている。

 

 

なおという人間と出会って始めて感じてきたもの。

 

それは

 

お互いに触れ合いながら、

目と目が合うその瞬間に

じわ〜〜っと心の中に溢れてくる何かがあって

それが涙として流れる、

 

 

みたいな。

それが、2人同時に。

 

そんな感覚、そんな時間、そんな瞬間は

いままでのせっくすの時間にはなかった。

 

 

スキンシップ的な触れ合いと

性的な触れ合いの境界線が溶けること

 

心地よさの感じると

性的な感じるの境界線が溶けること

 

その先に

わたしの望む、すてきな「まぐ愛」の世界があるような気がしている。

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(これは小林煌さんというすてきなひとのつくる版画カレンダーの裏紙)

 

この写真のなかの文章で

 

《セックスのゴールは精子たちが飛び出すことでも、子どもができることでもない。愛と愛が響き合って、そこに光が産まれること。》

 

とある。

ここで「生まれる」ではなく「産まれる」と表現しているのがなんともすてきだなあと思うのだけど、

 

ここでいう光。それは生命だとわたしは思う。

 

ほんとうの、まぐ愛がなされたとき、

卵子精子がなくても

生殖行為がなくても、

生命がうまれること、あると思う。

 

そう断言できちゃうわたしがいる理由は、

去年の12月、千葉での

ヴィパッサナー瞑想10日間コース中に

 

【受精卵を口から吐く】という夢を見たから。

 

奇想天外だよね。笑

たかが、夢。されど、夢。

 

この夢を見た意味、確かにあると今思っている。

 

吐いているその地は、インドだった。

いま、わたしはインドにいる。

そして、その受精卵を1番に見せに行ったのは、なおだった。

 

そして、この夢と現実とが、ぽんぽん繋がってきていて、

 

先日、わたしのこの夢のことを知らない人からある話を聞いた。

 

それは、

すでに、性行為なしで女性間で子どもができた人たちがアメリカにいる、という話。その産まれた子どもはいま7歳らしい。

 

話を聞いたときびっくりしてしまった!

 

そして過去にわたしとなおとでこんなことを軽い気持ちで話していた。

 

「2人同時に、隣で手を繋ぎながら出産できたらおもしろいよね」

 

(なおはおっぱいはとったけど、子宮は残したまま。生理もちゃんときている。なおの子宮は生きている。=しようと思えば出産できる!)

 

その吐いた受精卵を一体全体どうやって、体の中に入れるのか、わたしにはさっっっぱりわからないけれど、でもなんだかあの思いつき、現実になるかもじゃん!と思っているわたしがいる。

 

 

そんなことあったらちょーおもしろいじゃん!

 それ、ちょーすてきじゃん!

 

ってな風に、ここらへんの話をするときのわたしはいつも、わくわくする。未知への好奇心、人間の可能性への好奇心、に心踊る自分がいる。

 

○受精卵吐く夢

アメリカでの実例

○まぐ愛カレンダー

○うちらの妄想

 

それらが、パズルのピースがはまるかのように、何かを織り成しあっている。

 

人間とはこういうもん

 科学的にはこうであるはず

 

そういったものを握りしめて

限界をつくってしまえば

その途端に可能性は0になるけど、

本来、人間の持つ可能性ってもっと計り知れないのだとおもう。

 

「人間」って枠を超えて、

「生物」って枠で見てみると

クマノミとかなんちゃらとかは

無性生殖できたりするし、メス同士で子供できたりする。

 

だから全然、いろんな可能性が、人間にはあると思ってる。笑

 

そんなことを密かにずーっと思ってるわたし、レターポット始めてみました。よろしくね💌

 

レターポット関連からの、

お金の話、give &take の話、所有の話、インドでの話、またブログに書きたいな。

 

 

 おしまい。 

 

 

 

インド。なお。わたしの真ん中。

念願のインドに着いた。5日目。昨日の朝焼け。

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ようやく来れた。大学入ってすぐのころから、ずっと行きたいと思っていた。
インドが大っ嫌いになるひとと、大好きになる人と、両極端に分かれるという話をよく聞いていた。
そこで、自分はどっちに振れるのか、インドで自分を試してみたい、そんな好奇心がずっとあった。

5日目のいま、インドはおもしろい。
人びとはみーーーんなこころ優しい。

治安が悪いとかいろいろ言われてるけど
結局は自分がどんな世界を見たいかなんだ。

お金がないなら人に貰えばいい。
お金があるなら必要な人に渡したらいい。
お腹が空いてるなら人に貰えばいい。
お腹がいっぱいなら食べ物を分け与えたらいい。

スリをされたって、
欲しかったんだよね〜って
取ったやつ大事に使っておくれ〜って

そう笑い飛ばせたなら、世界はどんなに柔らかいだろう。

 

変に凝り固まった思考を握りしめてる必要はない。

 


道端で会ったある女性は
お金をちょうだいと手を差し出しながら、あはは〜っと笑っていた。
その姿にあっけらかんとしてしまい、自分達も笑ってしまった。
この、堂々さ、だいすきだ。

自分の欲求に忠実に。
自分のニーズに忠実に。

人に迷惑をかけてはならない
とか
1人でどうにかするもの
とか

自分の中の、【こうあるべき】はどんどん壊されて、なんでも許してしまえる。

本来人間はこうあっていいんだよなって。
そう、思い出させてくれる。


ただ、インド人は愛想笑いがないから、たまに怖い。
目の力がすごく強い。芯があって真っ直ぐ。
誤魔化しのない、純粋な目。

自分の中に取り繕いなどの不純なものがあると、インド人と目が合ってるその時間が苦しくなる。そして、目を合わせないようにしてしまう。

みんなインド人は自分の真ん中と繋がっているような、
わたしが手放したくてやまない
「どうに思われるか」
「こう思われたくない」
「こう思われたい」
そんなもん、いちっミリもないような。

余計な殻を脱ぎ捨てて
ただ、自分の真ん中と繋がり、生きる。

そんな姿をインド人の目に思う。


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インド着いてから早々にてぃんくるとはぐれ、ずっとなおと2人で時間を過ごしてるのだけど、
私たちのしていることといえば、


寝る、

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 食べる、(だいたい辛い)

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ケンカする

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くらいだ。

 


ほぼほぼベットの上にいる。
せっくすをするわけでもない。
ただ、ゴロゴロとダラダラしてる。笑

せっくすに関しては、
今がいちばんなおの中でのブロックの強さがピークにあると感じている。

性的なことへの嫌悪、自分の女性性に対しての嫌悪。

 

わたしになにができるのかは分からないけど、何かをがんばる必要は絶対なくて。

 

わたしが、なおという人間と出会って、新しく出会う性のグラデーションに触れて、こうやっていま向き合ってること、必ず何かの意味がある、と信じれてる。

 


せっくすって一体なんなのか。
付き合ったら必ずしなきゃなの?
そもそも付き合うって何?
すきってなに?
ハグ、キス、セックス、これらの境目は一体なに?
性的なものと、愛情表現、それらは両立する?するとしたらどうやって?

そんなことを昨日は話していた。

これ、誰しも答えを知らないんじゃないかってところに、落ち着いちゃった。

もーしかしたらもしかして、

せっくすが、愛情表現のひとつと言うならば

誰もが、誰とでもせっくすをする時代が来ることだって、あるかもしれない。

 

愛情の気持ちが湧くのは、たったひとり

恋人に対してだけってわけじゃないだろうから。

 

南米では初対面でのあいさつが

ほっぺにキスだったように、

日本じゃ考えられないような

既存の枠からは考えられないような文化が

無数に存在してて、これから新しく生まれる可能性だってある。

人間の可能性ってほんとに未知だと思う。

(ここに関してはフォーカスしてまた別にブログを書きたい。)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

そしてそして、

やっと作ったYouTubeアカウント。

https://www.youtube.com/channel/UCShYUxFKQY0DzHAqCFuOYag

 

旅の様子とか、なおとのやりとりを、映像に残していく予定。なにも編集もせずに、ただ撮ったままに。笑  

 

 

もがいてた〜逃げてた〜。

発信者になることを恐れる自分がいた。

 

自分の名前のアカウントに、

付き合ってる人の動画ばかりがあがる

その構図に、猛烈な抵抗感、ブロックがあった。

 

恋愛に埋もれて見えるんじゃないか、

相手に人生左右されていないか、

そんな偏見的な目を、自分で自分に向けたまま、なかなか抜け出せずにいた。

 

でも、

 

なおとの関わり、やりとりがわたしにとっての真ん中に含まれているのであれば、

それはやればいいんだ。

 

誰になに言われたって、

「これがいまのわたしのやりたいことなんです」って、そう胸を張って言えたらいいんだ。

 

 

てぃんくるも、なおも、いなくなった世界を想像する。

 

きっとわたしは、撮りためてたなおとの動画をひとりで世に出すだろう。

 

その理由はきっと、

なおという人間がいたことを、より多くの人に知ってほしいから。

わたしとなおとの間で交わしてきたやりとりを、より多くの人に届けたいから。

 

そうすることで、誰かの何かに触れることができる気がしてるから。

 

 

 

 

女でも男でもトランスジェンダーでもない

なおの性。

 

何かの枠に自分をはめようとすることを辞めて、ただ、自分にとっての心地よさだけを追求する。

 

既存のせっくすの概念の囚われから抜け、

ただ、人として繋がりたいと思う気持ち

そこだけで、やりとりがされる、まぐ愛。

 

そんななおと関わる中で、

わたしにもたくさんの揺らぎが起きた。

たくさんの固定的な思考に気付かされた。

たくさんの変化が自分に起きた。

 

 

わたしが魂震えるもの。

それはこれ。この映像見る度に、涙が流れる。

https://youtu.be/PnDgZuGIhHs

ぜひ、ここまで読んだ人、一目でいいから、ポチっとして、見てみてほしい。

 

わたしの魂はこの世界を望んでいるんだと、この世界に生きたいんだと、はっきりとわかった日があった。

だから、わたしは、なおと出会ったんだとはっきりと腑に落ちた日があった。

 

その感覚を忘れずに、

何かあったらその感覚を思い出しながら

これからのインド半年、共に過ごして生きたい。そしてその、生き様を映像に残していきたい。

 

そしてゆくゆくはてぃんくるの手によって、1つの映画になる予定!おもしろそう!そんなインド半年3人組の写真で、おしまい。

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